News 本年を振り返って

 平成二十年も余すところ一カ月、年が明ければ立教百五十年の当年をお迎えする。【金光教報-天地】

 教主金光様の御祈念、御取次のもと、教団活動の基本方針に副題として掲げた「立教百五十年を目指して、この道のおかげの自覚をもとに、信心生活を進める」ことを願いとして、金光大神様のご信心をあらためて求め、今日の時代社会に現してまいるべく、この一年、教団の諸活動に取り組ませていただいた。

 六月の教団独立記念祭時、受褒教師の代表が、「至らぬ私ですが、足していただきながら、臥していても、六畳のお広前に祈れることの幸せをかみしめております」と述べられた御礼の言葉が、脳裡から離れることがない。「来てくれというところへ行ってやる」と仰せられる生神金光大神様永世生きどおしの御取次、「神も助かり、氏子も立ち行き」という天地金乃神様の願い、「この道のおかげ」、さらには布教の拠点と位置付けられる教会を「神の広前」たらしめる神様へのご信心、そうしたことの実現する場が、日々の信心・ご用の生活であることを強く感じさせられるゆえである。

 かつて、ある青年教師がお結界のご用に当たることになった。お広前に一人という少なからぬ時間に、さまざまな思いを巡らせながらの日々に、何とも言えない寂しさが募ったと述懐される。それでもと、ご祈念、結界奉仕に心をこめる日月を重ね、いつともなく心に生まれてきたのは、ここは賑やかな所なのだという、温もりに満ちた実感と気付きであったと聞かせてもらったことが、前述の言葉と二重写しに思い出される。この道に注ぎ込まれ、蓄積されたさまざまな内容が、道を歩もうとする一人の命のなかに芽を吹き、何物にも代えがたい力の兆しとなったのだと頂かせてもらう。

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 毎日の生活に神様を感じること、そこまででなくとも、大いなる働きを感受しつつ大切に日常を生きるということは、今日の時代において容易でないことかもしれない。

 ある青年が言う。仕事や余暇でたくさんの人と出会うのだが、なかなか共通の話題が見つからない。時によると、共通する話題の見つからないことで話が盛り上がる、と。青年の言を反芻して、あらためて思うのは、求める共通性が趣味や仕事の業績や収入といった、いわば生活の二次的な分野に絞られてしまっていることだ。無意識のところで、生きている限り共通のはずの、眠る、目覚める、食べる、働くといった生活そのものは、共通性の範疇ではなくなっているらしい。そして、これは若い人に限ったことではない。

 昨今、大きな問題となっている金融危機も、ある元首はバーチャル経済と表現するように、実質経済の何倍、何十倍という金額の商品化された証券の売買額を資産と見なす常識や、そこに寄せられた過度の期待など、やはり二次的なところへの依存が破たんの原因のようで、米国発と言われながら、実は世界中がそれを受け入れる空気を共有している現代なのである。

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 「信心は、別にむつかしいことはない。親にものを言うように、朝起きたらお礼を申して、その日のことが都合よいように願い、よそへ行く時には、行ってまいりますとお届け申し、帰ってくれば、無事で帰りましたとお礼を言うようにし、夜寝る時にまた、その日のお礼を申して寝るようにすれば、それで信心になる」「なんぼう積み重ねておっても、食われぬことがあってはどうもなるまいが。まめで食えれば、それが分限者じゃ」など、一見やさしい日常訓でもある教祖様のみ教えが、現代に生を営むわれわれを、天地の間に生かされて生きるという生の本来に、絶えず立ち戻らせてくださっていることを思う。こうした日常の信心生活を大切に進めて、どれほどの者が苦難のなかに道を得て、おかげをこうむってきたことだろうか。その喜びと力が、今日の教団を有形無形に形づくっていると言っても過言ではあるまい。

 ご立教の今日における意味に思いを寄せ、手もとの日々に真心をこめ、神様と共にある信心生活への思いを新たに、立教百五十年の新年を迎えさせていただきたい。

News Update:2008/12/02


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