◆◆◆ あいよかけよの生活運動 ◆◆◆
運動の推進を願って
全教集会’07
運動の概要
New
ご利用下さい
バックナンバー





















 私たちは毎日を、当たり前のように生きていますが、しかし、けっして自分一人の力で生きているのではありません。自分のいのちを見つめなおし、毎日の生活を振り返ったとき、自分の力を超えた大いなる天地のはたらきによって、生かされて生きていることに気づきます。
 自らの力で、この世に生まれてきた人がいないことからも分かるように、私たちは、天地のはたらきの中で、いのちを授かり、今日まで生かされて生きてきているのです。人間だけではありません。私たちが、生きるために食べている幾多の食材の一つひとつも、人間の力の及ばない、天地のはたらきによって、生まれ、はぐくまれたいのちたちです。私たちのいのちは、こうした大いなる天地のはたらきや多くのいのちによって、支えられ、生かされて生きているのです。
 人間をはじめ、あらゆるいのちを生かそう、育てようとする、この大いなる天地のはたらきを、教祖金光大神様は、天地金乃神様と称え仰がれたのです。
 そればかりではありません。私たちは、神様からいのちを頂くとともに、神様と同じ、人の助かりをひたすら願う心、神心(神のわけみたま)を頂いて、この世に生まれてきています。
 苦難に出あっている人を見て、かわいそうにと思い、何とかしてあげたいという心が、自然にわいてくるのも、この神心を頂いているからであり、「何とか助かってほしい」と願われる神様の心が、私たちに届けられているからなのです。
 親が子どもの健やかな成長をひたすら願うように、私たちにいのちと神心とを授け、育ててくださっている神様もまた、ひたすら人間の助かりを願ってくださっています。しかし、この神様の願いを現すには、人間のはたらきがなくてはなりません。人間のはたらきがあって、はじめて神様の願いは成就していくのです。
 教祖様は、神様と私たち人間との関係を「人あっての神、神あっての人、あいよかけよで立ち行く」と説かれました。人間は、大いなる天地のはたらき、つまり神様によって生かされており、神様もまた、人間をとおして神としての生きたはたらきを現すという関係にあるのです。
 私たちのいのちは、そもそも神様から頂いたいのちであり、大いなる天地のはたらきの中で、今日まで育てていただいたいのちです。そのうえ、神心まで分け与えられているのです。自分勝手に生きるのではなく、人の助かりのために生きてほしいという神様の願いに応えていくことが大切です。
教祖様は、すべての人間は、等しく神心を与えられて、天地の間に生かされている神のいとし子同士である、とお示しくださいました。
 この道の信心を進める私たちは、神様のおかげの中で生かされている喜びを確かめ、神のいとし子としての自覚を深くし、すべての人の助かりと立ち行きを願う生き方を求めていきたいものです。
そして、神と人とがあいよかけよで立ち行く世界を生みだすという、ご神願成就のお役にいっそう立たせていただきたい、と思います。




 私たちが普段は当たり前のように思っていることでも、当たり前でないことに気づかされ、あらためて神様とのつながりを感じるきっかけに、病気や事故があります。
 ある主婦の方が、突然、嗅覚を失いました。トーストやみそ汁など、その家それぞれにある朝の香り、洗濯をするときの洗剤や太陽の光をいっぱい吸った洗濯物や布団の香りをはじめ、普段はいやなにおいと思っていたゴミやトイレのにおいまで、すべて失ったのです。

 ある日、突然、においが戻ってきたとき、うれしくて、ゴミ捨ての中の腐ったにおいやトイレのにおいまで、かぎたくてしようがありませんでした。そして、無性に涙が出て止まらなかった、といいます。

 この人は、日ごろ、何とも思わなかったにおいが、こんなにも生きるということに深くかかわっていた、ということに気づかされ、あらためて、自分の生を支えているいのちのはたらきを知ったのでした。
 ある学生が、友達とスキーに行きました。腕には相当に自信があったので、上級者コースを滑ることにしました。その日は温度が下がっており、コースは相当に硬くなっていました。あっと思った瞬間でした。突然、目の前をバランスを失った少年が横切ったので、ぶつかるのを避けようとして、転倒したのです。ひじを強打して、彼の腕は、複雑骨折で緊急手術となりました。腰の骨を採って腕の組織に移植し、骨と骨をボルトで止め、ギプスにくるまれての退院でした。それから彼は三回にわたる手術を繰り返して、やっと腕を自由に動かすことができるようになりました。
 けがの治療自体はつらいものでしたが、その一方で、腕の中の張り巡らされた幾多の神経、一時も休むことなく栄養を運んでいる血管、そして、腕を曲げたり伸ばしたりできる骨や筋肉など、多くの驚くべきはたらきを、彼は身をもって実感したのでした。そして、自分の身体の中の精妙なはたらきに気づくとともに、いのちを成り立たしめる神様のはたらきに気づくことになりました。
 人のいのちは、天地金乃神様から賜ったものであり、それゆえに、人は、難儀や苦難に陥ったとき、自らのいのちを見直し、大いなる神様のはたらきにめざめ、つながるのです。 無限の天地のはたらきの中に生かされ、神様のいのちにつながっているのが、人間のいのちなのです。





 一人ひとりが、大いなる神様につながり、かけがえのないいのちを与えられていることを自覚すると、自分のいのちが、実は他者とつながるいのちでもあることを自覚することになります。
 生かされて生きていることを知らず、自分中心に物事を考えているときは、自分の立場を守ることや、利益を優先する生き方が表に出て生きることになります。
 嫁姑の問題に苦しんでいる人がいました。嫁いだときから、することなすことに小言を言われ続けたこの人は、やがて姑を憎むようになり、家庭も重苦しい空気に包まれることとなりました。それが契機で信心をするようになったこの人は、神様から見たら、私も姑も、共に助かってほしいと願われている、神のいとし子である、ということを知りました。「生きてきた時代社会が違うのだから、おかあさんの立場からは、私のあり方がよく見えないのも無理がないのではないか。おかあさんは、大切な私の主人を生み、育ててくださった人なんだ。私が留守をするときは、幼い息子や娘を預かってくださったこともあったなあ」と思えるようになりました。
 神様のみ心を思うことにより、姑の立場に立って考えることができるようになり、やがて姑に対して感謝の心さえわいてきたのです。その感謝の心は、言葉として表れるとともに、笑顔で接することもできるようになりました。
 神様につながることで、相手の立場を思いやり、その立場が分かることになり、そこから、この人は自分の自己中心性を乗り越えていくことができたのです。
 相手の立場を思いやるというあり方は、他者のことを考えず、自分中心に生きていたあり方から、お互いが尊い神のいとし子同士であるという他者認識への転換をもたらします。そのことは、人へのいつくしみの心を高め、人を助けていくはたらきとして現れていくことになるのです。




 人を助けるということは、私たちの心に分け与えられた神心が、自然に動きだすことにほかなりません。
 マスコミで報道される世界の現実に、強い驚きと深い悲しみを感じることはありませんか。戦争で傷ついた多くの人が、うつろな表情を浮かべて重い足どりで戦火を逃れている姿、とりわけ幼い子どもたちの傷ついた姿には、強い憤りすら感じます。幼い子どもが地雷の被害にあって、いのちは助かったものの、義足と松葉づえで歩いている姿などにも、そんな気持ちを禁じえません。他者が傷ついたり、苦難にあったりしている姿を見て、かわいそうだなあ、何とかしてあげたいなあ、という心が思わずわいて出ることが、私たちが天地の神様とつながっており、神様から神心を分け与えられている、何よりの証なのです。
 教祖様の時代のことです。教祖様の直信に片岡さんという方がおられました。ある寒い日のこと、いまの岡山市から金光へお参りをする途中のことです。寒そうにしているおじいさんに出会ったので、気の毒に思い、着ていた物を脱いでその人にあげました。お参りすると、教祖様は、片岡さんをおほめになり、不幸せな者を見て、真にかわいそうだとの心から、わが身を忘れて人を助ける、そのかわいそうだと思う心が神心ですよ、と言われました。教祖様は、片岡さんの行動が、理屈ではなく、思わず現れたことに対して、それは神心が行動となって、他の人に対して現れ出たのであると、お示しくださったのです。
 人が他者に親切を尽くすときに忘れてはならないのは、だれよりも神様が、その人の難儀を、かわいそうであると共感、共苦し、何とかしてやりたいと思っておられる、ということです。「わたし」の親切とは、そうした神様の心が私をとおして現れ出たものなのです。他者の助かりのために親切を尽くすことは、神の願いを現すことにほかなりません。  その現れ方は一人ひとり違っています。なぜなら、神様は、そのとき、その場に応じて、一人ひとりにふさわしいはたらきと使命を願っておられるからです。病床にあって動けないときでも、人の助かりのために祈ることはできます。また、苦しみや孤独のなかで、救いを求めている人の話を、話し相手となって聞くことも、人を助けることなのです。
 神のいとし子であるということにめざめ、生活の場で、同じ神のいとし子である人に、いつくしみの心をもって行動するとき、神様の願いを実現していくことになるのです。





 現代の社会・世界をとりまく状況は、南北問題や地球規模での環境破壊や民族紛争など、容易ならない様相を呈しています。
 現在日本では、食べ物にも不自由しない、物質的に豊かな社会の恩恵にあずかっていますが、世界に目を転じますと、そこには飢餓で苦しむ多くの人々があり、日本の貨幣価値ではわずか一円ほどのワクチンなのに、それが不足しているために、病気に倒れる幼い子どもたちがあふれているという現実があります。  タンカーの座礁事故で大量に流れ出した重油により、真っ黒になった鳥たちの姿を目にしたとき、あるいは、有害な紫外線から守ってくれているオゾン層が、私たちの生活の場から出たフロンガスによって破壊されているという事実を考えたとき、豊かさを享受している反面で、環境を破壊しているのが人間にほかならない、ということを思い知らされます。
 旧ユーゴスラビアでは、イスラム系、セルビア系、クロアチア系などの人々が、憎しみのなかで、互いの人権を悲しいまでも軽視し合い、殺し合うという、人のいのちが大切にされない状況がありました。人間を、民族、国家、宗教、性別、社会的地位などといった人間の持つ属性から、分類、評価し、差別化しようとする意識が、国家や民族間の戦争、宗教間などのさまざまな争いをもたらしてきています。
 このような、世界や日本における問題の根底には、天地とのきずなだけではなく、人と人とのきずなが切れているあり方があるといえましょう。  だからこそ、人間はみな神のいとし子同士ということを、私たち人類の大切な価値として、人と人とが互いのいのちを大切にし合う関係、われひと共に助かる人間のあり方を目指すことがいるのではないでしょうか。
 この運動では、人間は等しく神のいとし子同士であるとの本教独自の人間観をもとに、本教信奉者一人ひとりが、世界の平和と人類の助かりを祈り、人を助ける生き方を進めることによって、人類的な課題にも迫っていきたいと願っています。

 「あいよかけよの生活運動」は、大いなる神様のはたらきの中に生かされ、神様につながるものとして、わが心の神にめざめ、自己中心性を克服し、天地の間のすべてのいのちをいつくしむという、新たな秩序、共同性の創造を目指すものです。
 それは、決して難しいことではありません。教祖様は、信心する者の心得として、エプロン(前掛け)が二枚あって、人にそのどちらかをプレゼントするときには、よい方をあげなさいとも、また、自分のことよりまず他者のことを先に祈れとも教えてくださっています。私たちは、人の助かり、喜びこそ神様の喜びである、との思いに立ち、それぞれの生活の場でできることから取り組んでいくことを、あらためて運動として取り進めるのです。
 ご神願成就の一端を担うこの運動の信仰実践は、他者のいのちを輝かせることになるとともに、運動を実践した人のいのちもまた、さらにいっそう輝かせることになります。




 「あいよかけよ」という言葉は、備中地方(岡山県西部)の古い方言であり、二つの存在が互いに力を出して協力するあり方を表現する言葉です。教祖様はとくに、神と人、人と人とのあるべき関係を、「あいよかけよ」という言葉を使って説かれました。
 神と人との関係は、親子の関係のように、親は子があってこそ親であり得るのであり、子は親なくしては存在し得ないという、切っても切れない関係にあります。

天地金乃神様は、広大な恵みとはたらきをもって、常に、人間をはじめ万物を生かし、はぐくんでくださっています。そして、私たち人間に対しては、「人間がおかげを受けないで苦しんでいるようでは、神の役目が立たない。人間が立ち行かなければ、神も金光大神も立ち行かない」と、親神として限りないいつくしみをかけてくださり、世界の平和と人類の助かりを願っておられます。
 私たちが、神様の恵みとはたらきにめざめ、感謝の心を持ったとき、神様との関係は深まり、何事も神様に一心に願うことで、いっそう深い関係となります。
 また、すべての人間は、神様から神心を分け与えられて生きている、神のいとし子同士です。このことを自覚したとき、人それぞれの違いを個性として、互いの存在を認めることができ、共に立ち行こうとするあり方となります。こうしたあり方は、人を助けたい、この道を世界に伝えたい、との神様の願いに応えるものであり、神様との関係はますます深くなります。さらに、人間中心の考えや、自分の助かりの枠を超え、人助けのご用に立たせてくださいとの願いを持つことで、神様もまた、そのはたらきを十全に現され、それが私たち自身の助かりともなるのです。
 このような関係が、神と人、人と人との、あるべき関係であり、あいよかけよの関係なのです。  私たち人間は、神様から神心を分け与えられています。釘が磁石に近づいたとき、磁石の作用によって、釘自体が磁石のはたらきを現すように、私たちは神様と触れあったとき、神心によって神様のはたらきを現すことができるのです。
 あいよかけよの生活とは、神様との関係を深くし、人を助けたいとの神様の願いを現す生活を言います。





人間は、生活の中で、たえず人とかかわり合って生きています。
家庭や近隣、会社などでの直接のかかわりはもちろんのこと、間接的にも、人との何らかのかかわりなくして生活を営むことはできません。また、物との関係もそうです。多くの人や物のお世話になり、また、多くの人や物に影響を及ぼし、相かかわり合って生きているのです。
 生活を営むなかでは、さまざまな心がはたらきます。苦難に出あっている人を見て、かわいそうにと思う心、何とかしてあげたいという心など、人の助かりを願う神心がはたらいたとき、その人に助かってほしいという祈りや対話、人のお役に立ちたいという行動へ、と導かれます。反対に、不足やねたみ、憎しみなどの心や、他者を責め、自分の思いを貫きたいという、人を無視した自分本位の心がはたらいたときには、人を傷つける言葉や、われさえ良ければという行動として、現れることにもなります。  人を助けたいとの神様の願いを現すには、心の現れともいえる、祈り、対話、行動の内容が、重要となるのです。

 祈りは、神様との心の交流です。お礼やお願いごとなど、ありのままの心を神様に向けることが大切であり、神様と共に生きる生活の入り口となります。また、祈りをとおして、自分の本当の姿を見ることができ、おわびや改まりの心が生まれ、神心に導かれて、人の助かりを祈り、人助けのご用にお使いいただきたいとの祈りへと展開していくのです。
 対話は、聞く、語るといった、人と人とが心を通わす基本の行為であり、行動は、さらに社会性をもった、広がりのある営みです。すべての人間は、みな、神のいとし子であるとの認識に立ったとき、神心に促されて、信心親切の言葉や行動となり、人の心に神心をめざめさせ、人助けの輪が広がります。こうした言葉や行動は、神を現すことになり、道を伝え、広めていくことにもなります。
さらに、私たちは、動植物や品物をはじめ、天地のすべてのものとも、かかわり合っています。それぞれのいのちや価値を認め、よりよい関係を求めていきたいものです。



二十一世紀という新たな世紀を迎えるとともに、本教は、教団独立百年の歴史を経て新たな時代を歩み始め、「金光教宣言」を表明し、ご神願成就に向けたさまざまな取り組みを進めています。

 今日の時代社会をあらためて見渡すと、科学技術のめざましい進歩は、豊かで、快適な生活を私たちにもたらしましたが、その一方で、地球規模での環境破壊や、南北問題といわれる経済格差、さらには民族的な対立による武力紛争など、生命や人権を脅かす幾多の問題を引き起こしています。
 また、インターネットなどの情報技術の発達によって、容易に世界中のさまざまな情報に接することができるようになった反面、人間同士の実際のつながりは希薄となり、現実の一人ひとりのいのちの営みは分断され、孤立化の度を深めてきています。
 わが国にあっては、高度経済成長を経て、物質的には豊かになりましたが、近年の長期化する経済不況にあって、企業の倒産や雇用不安が広がるなか、とりわけ、青少年による人命を軽視した悲惨な犯罪が、次々と引き起こされることに象徴されるように、人心の荒廃には深刻なものがあり、生命の尊厳性の希薄化が、顕著に認められます。
 そして人々は、行く末が見通せないという将来に対する不安を抱え、さらには、自分はなぜ生きているのかという自己の存在の意味や生きがいが見いだせないといった問題に出あっています。

 このような諸問題を本教信仰からみれば、その根底には、大いなる天地・神から離れた人間中心、自己中心的なあり方が潜んでいる、と言えるのであり、その解決は、神と人との本来的関係が回復されることによってのみ可能である、と言わざるを得ません。世界・人類の救済を願いとする本教としては、二十一世紀にあって、このような人類的な課題に対し、「神と人とあいよかけよで立ち行く」という本教独自の信仰思想を基に、本教人の生き方と使命を明らかにし、実践していくことが、本教信奉者の課題である、と考えます。

 すべての人間は、等しく、神の分けみたまを与えられて、天地の間に生かされている神の子です。そして、神と人間とは、「人間あっての神、神あっての人間」という関係にあり、神と人とあいよかけよで立ち行くあり方こそ、真実に助かる生き方なのです。
 神の子としての人間は、天地のいのちにつながる者同士として、神と人との関係を基本としつつ、人と人との関係においても、お互いのいのちを尊び合い、共に助かっていくあり方を求めていかなければなりません。私たち信奉者は、そのことを身をもって現し、世界の人々に伝えていくことが大切であります。

 教団では、昭和五十八年の『金光教教典』刊行後、教義究明の営みを続けるなかで、世界・人類の救済に向けられた金光大神様の信心の全体像が明らかになってきました。平成元年に発足した「よい話をしていく運動」では、わが心の神にめざめ、天地のいのちにつながる者同士として、一人ひとりの人間を大切にし合い、われひと共に助かる生き方を求めました。そして、「よい話をしていく運動」を展開していくなかで、人を助け、世のお役に立つという、神の願いを強く意識した信心のあり方が、全教的に自覚されるとともに、行動にも現されていきました。
 さらに、平成十年教規によって、本教は、神と人とあいよかけよで立ち行くあり方を世界に現していく、とのご神願成就を目的とするものであり、信奉者は、そのご神願成就の担い手として、「わが心の神にめざめ、人を助けて神になる信心を進め、連帯して教団および教会の活動を担い、展開するものである」と押さえられました。

 そこで、二十一世紀の人類的課題を視野に入れつつ、今日まで培われてきた信仰内容をふまえ、祈り、対話、行動をもって、神を現す生活を、新たな信心運動として実践していくことを願いとして、このたび「あいよかけよの生活運動」を発足いたしました。
 「祈りをもって神を現す」「対話をもって神を現す」「行動をもって神を現す」ということのそれぞれが、共に助かる世界を生みだすための大切な信仰実践です。どこから始めてもかまいません。各教会で実践目標を立てて取り組んでいきたいと存じます。
 全教信奉者が、「あいよかけよの生活運動」に取り組むなかで、一人ひとりの信心をいっそう深め、教会をはじめ教団各面の活動をさらに展開させて、神と人、人と人とが共に助かる世界を生みだすおかげをこうむらせていただきたい、と存じます。