●ピックアップ
 「崩れゆく憎しみ」


金光教川西教会
平本行雄



 愛というのは鏡に映すようなもので、自分が笑わなければ、相手も笑わないのです。
 人を憎む、相手を憎むということは、結局はその者から、自分が憎まれることになるのです。マッチ1本擦るのにも、「ええい、くそ!」と擦った時は、よく軸が折れて、火が自分の服に焼け焦げを作る。結局、憎しみは自らを傷付けることになるのです。
 さて、金光教の信心を長年にわたって続けておられる一婦人が、縁あって高校生を筆頭に3人も子どものある方と結婚されました。
 主人とはうまくいくのですが、子どもたちはどうしても新しい母親になじみません。その上、新しい母親に憎しみさえ持って迫ってくるのです。「僕たちは決してあなたを『お母さん』と呼ばない」と、子どもたちは連署して母親に突き付けました。「僕たちのお母さんは死んでしまった人、ただ一人だけ」と、兄弟3人は、しっかりと誓い合ったのです。
 それからは、子どもたちの憎しみの中での生活が始まりました。いかに信仰を持つ者とはいえ、この生活はつらく苦しいものです。朝、顔を合わせても、「おはよう」のあいさつもない。学校から帰ると、子どもはそれぞれの部屋に引きこもってしまい、夕食も別々に食べるという状態でした。
 婦人は嫁ぐ前、教会の先生から次のような話を聞きました。
 「一度に3人もの子どもができるということは大変なことです。自分の力で育てられると思ってはいけません。全ては神様にお願いして、つらく苦しい時、その苦しい顔を決して子どもたちに見せてはいけません。苦しいことがあって当たり前。高校生まで育ててこられた前の母親の苦労も知らずに『お母さん』と呼ばれるはずがないのです。もし子どもが最初から『お母さん』と呼んでくれても、それは表面だけです。本当の母親になるには、16年間の育てあげる苦労が、これから一度に出てくるでしょうが、頑張りなさい」
 この先生の言葉に覚悟を決めて入り込んだ家庭でありましたが、何度帰ろうかと思ったか分かりません。その度に教会に走り、神様に自分の至らなさをわび、先生から話を聞いては気を取り直し、重い足を家に向けるのでした。3年、5年、針のむしろに座るような生活が続きましたが、子どもたちの態度は一向に変わりません。婦人はそれでも、子どもたちに真心で世話を続けました。どんなに罵声を浴びせられ、時には足で蹴られるような時にも、笑顔だけは忘れませんでした。
 悲しい心を隠して作る笑顔がどんなにつらかったことでしょうか。家庭の事情を知っている者にとって、なんとわがまま息子なのかと腹立たしく思えることもしばしばでした。
 なぜ、あんなに優しい人が好んで苦労をしなければならないのかと、神様を恨む気持ちにさえなりました。婦人は、教会に参り、先生からの話を聞くことを唯一の心の糧として、せめて長男が結婚するまではと頑張りました。やがて長男は好きな女性ができ、結婚することになりました。「やっと責任を果たした。これで私の役目も終わった。すっかり片付けたらば、この家を出よう。私がいるために子どもにつらい思いをさせた」。婦人は新たに決意を固めて結婚式に臨みました。
 三三九度の杯も終わり、宴(うたげ)に移ろうと列席者が席に着いた時、長男である新郎が突然に口を開きました。「皆さん、今日は私のためにお集まりいただき、ありがとうございました。皆様もご承知のように、私の母は二度目の母であります。私たち兄弟は、この人を母と呼ばない誓いを立ててまいりました。最初は憎しみさえ感じてつらく当たってきました。ところが母は、私たちがどんなにつらく当たった時も、にこにこ笑っているのです。まあ最初だけさと思っていたその笑顔は、今日まで一度も変わることはなかったのです。その笑顔を見る度に私の心は複雑な気持ちになってきました。最近では自分自身に腹さえ立つのです。これでもか、これでもかと思う気持ちが、母の笑顔で、もろくも崩れてゆくのです。私は今とても苦しいのです。そこで誓い合った弟たちには悪いのですが、今日この機会に、私は改めてこの人をお母さんと呼びたいのです。お母さん、長い間本当にすみませんでした。お許しください」と、涙を流して訴えました。すると、それを聞いていた弟たちが走り出て、「兄さん、よく言ってくれた。実は僕たちもつらかった。兄さんとの誓いをいつ破ろうかとばかり考えて、毎日が苦しかった。よく言ってくださった」と兄弟が互いに手を取り、母のそばで泣き崩れたのです。
 結婚式に出席した者も、以前の状態を知っている者が多いだけに、共に涙し、この光景に心から拍手を送りました。
 人を憎み、人を呪い、物をぶち壊す、いわば憎しみの感情は、どんな人でも簡単に持つことができます。しかし、人を憎んでいる時と、人を愛している時とは、どちらに心の安らぎがあるでしょうか。
 神を信ずることは、愛情豊かな人間になれるということでもあります。愛情の欠けていく社会に、私たちはもっともっと愛情を注いでいきたいと願い続け、日夜取り組んでいます。


 


 

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