●かんべむさしの金光教案内U 第4回

金光教放送センター

 


 おはようございます。「かんべむさしの金光教案内」、その最終回でございます。
 第1回目では、私が、漫画家サトウサンペイさんの『ドタンバの神頼み』という本で、初めて金光教という宗教を知ったこと。その後、40代半ばから、仕事や生活上のトラブルが続いて心が疲れ果て、それで、サトウさんの本で紹介されてた、大阪市内にある金光教玉水教会という教会に通わせてもらいだしたことなどをお話ししました。

 そしてそれは、金光教が穏やかで優しい宗教で、他の宗教を否定せず、共存共栄を良しとしていること。寄付や献金の強制もないし、信心を続けるかどうかも本人の自覚に任されてること。そして何よりも、こちらの悩み事の解決、願い事の成就を神様に祈ってもらえ、神様の思いも伝えてもらえる、「取次」ということをしていただけること。そういった点に魅力を感じたからでした。

 で、その間、作家という仕事柄もあって、他の主立った宗教の入門書なんかも読みまして、自分なりに得心したこともありました。
 というのは、いくつもの宗教が神というものを、形もなく姿も見えないけど、この宇宙に満ち渡ってる存在なのだと、そう教えてるんですね。ですから私は、「そうか。別々の宗教が同じ存在、つまり、大いなる意思のようなものを神と称して、それと人間との関係を説いてるのか。その神様の名前とか、教えの内容がそれぞれ違うのは、時代や国柄や教え始めた人による、捉え方や道筋の違いだと解釈すればいいんだな」と、そう思いました。
 また宗教以外でも、インドの正統的なヨガは、神という言葉は使わないそうですけど、同じ存在を、「気」とか「宇宙霊」と称したりしてる。遺伝子の研究をしてる最先端の科学者が、やはり理論を超えた存在があると実感して、それを「サムシング・グレート(偉大な何か)」と、エッセイに書いたりしておられる。これも、捉え方の違いですよね。

 さらに、金光教関係でいいましても、ある教会の先生が書かれた本に、「金光教の神を語るではなく、金光教で神を語る」という言葉が出てきました。また、関西金光学園という学校法人がありまして、大学・高校・中学校を運営してますが、そこの宗教教育でも、「金光教のことを教えるのではなく、金光教で教える授業を目指してる」という、そんな方針をお持ちの先生もおられるそうです。
 どちらも、金光教の教えを通して神というものを伝えるのだということで、金光教の間口の広さや、他の宗教も認める姿勢が、よく現れてることだと思いました。

 さて、そこで最後に、そのいろんな道筋の一つである金光教が教えてる神と人との関係を、メモを読み上げる形で紹介させていただきましょう。
 1、この神様は天地源の神様であり、形もなく姿も見えないが、この宇宙に満ち渡っておられる。そして人は、その神様のタマシイ、みたまを分け与えてもらって、この世に生まれてきている。肉体の親は両親だが、本体の親は神様なのだ。だから現実の親と共に、本体の親にも喜んでもらえるような、そんな生き方をしていくのが根本である。
 2、人間のことだから、無礼や間違いを犯すことはあるだろう。しかし、それを叱りはなさっても、罰など当てられる神様ではない。本体の親として、自分の子どもである人間が可愛いという思いの他は何もなく、恵みや助かりを授けるのに忙しくて、罰など当てる暇はないとおっしゃる神様なのだ。
 3、もちろん、生活の中で起きてくる問題や、実現させたい願いなどは、それこそ子どもが親に頼むように、遠慮せずに願えばいい。子どもが何か悩みを抱えてながら、親にも打ち明けず一人で心配してたら、それを見た親はもっと心配するだろう。打ち明けて、「こうしてください。ああなりたいのです」と願ってくれた方が、親はどれだけうれしくて安心することか。それと同じことで、何でも願ってきてくれたら、神もうれしい。人間からいろいろ願われるのが、神の役目でもあるのだから…。

 とまあ、こんなふうに、穏やかで優しい神様でして。その神様と人間との間に立って、あちらの思いや願いをこちらに伝え、こちらの悩みや願いも向こうに伝えてくださって、解決や成就を祈ってくださるという、そんな役目を果たしておられるのが、金光教の教会であり先生なのだと、こういうことです。
 そして金光教では、折々のトラブルや災難を乗り越え、それぞれの願いを実現させてもらうために、その勉強や稽古は教会でして、実行実践は、毎日の仕事の場や家庭で行いなさいと、そう教えておられます。だから私も、そのお稽古のまね事くらいはさせていただいてるわけですね。
 はい。以上、「かんべむさしの金光教案内」でした。機会がございましたら、またいつかお話を。どうも、ありがとうございました。

 


 

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