●信心ライブ「焼肉店の帰り道」


金光教放送センター



ナレ)おはようございます。
 今日は、金光教東旭(ひがしあさひ)教会の平阪真太郎(ひらさかしんたろう)さんが、令和元年7月に大阪の玉水記念館でお話しされたものをお聞きいただきます。
皆さんは、普段の生活の中で、イライラすることはありませんか。平阪さんは次のようにお話しされました。

 妻と食事に行ったんです。それまでちょっと忙しくしていて、ようやく出来た時間だったので、焼き肉ランチを食べに行こうと妻を誘ったんです。
 そこの店には以前に行ったことがあるんですけれども、ここのカルビ定食が絶品なんですね。席に座りまして早速カルビ定食を注文しました。
 待っておりましたら、もう3分もしないうちに肉が運ばれてきました。自分で焼くタイプなのです。生肉が運ばれてきた。ところが、「あれ? いつもと違うな…」と思ったんです。明らかにカルビじゃないでしょみたいな肉が運ばれてきたんです。カルビというのは脂が乗っていて、さしが入っている。それがないんです、全く! もう赤茶色なんですね。注文する時に僕が間違ったのかなと思いました。「私、カルビ定食2つ頼んだんですけど、合ってます?」と店員さんに聞いたら、「はい、こちらカルビ定食です」とおっしゃったんですね。「え?」これもうどう見てもハラミなんですよ。「え? ハラミですよね?」。「いやカルビです」。「え? そうですか?」と言って、私もそんな生肉見ただけで肉の種類当てれるほど肉に詳しくはないですから。「あ、そうですか」。
まあ焼いてみないと分からない。ひとくち口に運びました。そしたら、もうハラミ独特の臭みといいますか…私ね、ハラミ食べられないんです、実は。苦手なんですよ。私もうすぐに店員さん呼びまして、「すいません。あのう、これ焼いて食べたんですけど、やっぱりハラミでした」と言ったんです。すると店員さんが、「いや、いつものカルビです」と。いや、いつものカルビって…。「すいません、申し訳ないんですけど、私ハラミダメなんでね、分かるんです。これはハラミなんですよ」。「いや、カルビです」と言いますから、私もどうしたものかなと思ってですね。私があまりにも困った顔をしておりましたから、店員さんもしびれを切らしたかのように、「ちょっと厨房(ちゅうぼう)に聞いてきます」と言って、下げてくださったんです。「ああ、良かった」と思いました
。厨房に行ったら、もうはっきりしますからね。それで厨房に持って行ってくださったと思うんですけどね。
 その店員さんが持って帰って来られたんです「厨房に確認しましたけれども、カルビです!」と。私は、「絶対ウソや! 何でそんな意固地に言うんだ」くらいに思うわけですよ。だけど、もうそこまで言われたら、それ以上言っても仕方がないなと思いました。でも、残すのももったいないし、感じ悪いだろうから、「う〜ん、どうしようかな」と思ったら、妻がテーブルの辛みそを指さして、「これを付けて食べたら」と言ってくれたので、大量の辛みそを付けて食べました。妻はハラミが好きですから、私の分も食べてくれて、何とか食べ終わることができたんです。
 でも、私の心がもうずっとモヤモヤしているんです。「何でそんなに認めてくれへんのやろなあ」という思いで。もう帰りもイライライライラしながら帰ってくるわけです。
 だけどね、私はその本当にイライラした気持ちが、そう長くは続かなかったんです。スッと私のイライラが無くなったんです。何でこのイライラが無くなったかと言いますと、帰り道、自転車をこぎながら、「神様、もう助けてください! もうイライラモヤモヤが止まりません。何とかしてください」と。小さいことだけれども、「私のイライラモヤモヤが止まりません。助けてください」とお願いしたんです。吐き出したんですね。
 そうしましたら、私の胸に、あることが思い浮かんできたんです。それは何かと言いますと、この日を迎えるまで忙しくしていたと言いましたけれども、実は3日連続会合がありまして、3日連続会食があったんです。この3日連続脂っこい物ばっかり食べてたんです。私の胃腸はひょっとしたら…意識はしてなかったですけれども…限界ギリギリだったかもしれない。もしかしたら神様が私の胃腸を気遣って、「お前、今日もカルビを食べるんか。止めとけ。今日は、もうヘルシーな赤身の、ハラミにしておきなさい」と神様が私の体を気遣って、ハラミを私に食べさせてくれたんじゃないだろうかと。もちろんそんなこと証明できませんよ。証明できないけれども、そう思えたんです。思えたのは事実です。その瞬間に、私のイライラモヤモヤは吹き飛びまして、逆にありがたい気持ちにすらなれたんです。
怒りとか不安とか、私たちの心をむしばむ感情というのは、自分で抑え込むのは至難の業だということがよく分かりました。自力では無理なんです。どこかに吐き出さないといけない。吐き出さないと消えないんです。では、どこに吐き出すか? 人に吐き出すのではなくて、私たちは神様、教会、教会の先生という吐き出す場所を与えていただいていると思うんです。吐き出さないと新しいものが入ってこないんですね。心配になったり不安になったりイライラしたら、もう自分の心が満杯になってしまう。そこに、「こういう時にはこういうふうに思いなさいよ」ということを言われても変えられない。いったん吐き出さないと新しいものが入ってこない、このことを私は学ばせてもらいました。
人は何か壁にぶち当たった時に、どんな心になったら良いかというのは、大体みんな知ってるんです。だけど、なろうと思ってなれない。思うということは、自力だからだと思うんです。自分が思おうとしている。自力だから、ここには辛抱とか無理が伴う。でも、思えるというのは神様がそう思わせてくださると思うんです。
 イライラした焼き肉店の帰り道、私は神様に、「もうお願いします。イライラモヤモヤを何とかしてください」と言った時に、ああいうふうに思えた。神様が私のためにそうしてくださったと思えた。これは自然だからスッと入ってくるんです。


(ナレ) いかがでしたか。
 皆さんは、イライラやモヤモヤした感情を抑え込んでいませんか。実は私も以前、心配な気持ちで押し潰されそうになった時、教会の先生に打ち明けて、楽になったことがあります。
 つらい時、苦しい時、正直に神様に訴える、もしくは教会の先生に聞いていただく。まず吐き出すことが、全ての壁を乗り越えていく大きな力になるのです。

 


 

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