●透き通った食べ物

金光教羽曳野教会
渡辺順一


 金光教祖は、多くの人々が飢えに苦しんだ幕末維新の頃、参拝者たちに、「食物はみな、人の命のために天地の神が造り与えてくださったものである。何を飲むにも食べるにも、ありがたく頂く心を忘れないようにしなさいよ」と語りました。
 私たち人間が口にする食物や水は全て、天地の神様からの賜(たまわ)り物であり、天地のいのちそのものです。私たちはその天地の恵みを体の中に頂いて、大いなる天地のいのちにつながりながら、掛け替えのないたった一つのわがいのちを、生かされて生きております。
 そして、天地の神様が人間に与えてくださっている食べ物は、食物や飲料水だけではありません。
 大地に降り注ぐ太陽の光やお湿りも、吹きそよぐ風の音も、鳥や虫たちの鳴く声も、人々が奏でる音楽や歌声も、幼い頃に聞かされた様々な物語も、人を励まし慰める優しい言葉も、人間の心と体を育む、透き通った食べ物なのです。
 こんにちの日本社会は、「飽食の時代」と言われる一方で、「見えない貧困」が広がる格差社会となっております。
 2013年には大阪市のマンションで、28歳の母親と3歳の子どもの遺体が発見されました。部屋に食べ物はなく、電気やガスも止められていました。誰にも助けを求めることができないまま、餓死してしまったものと思われます。
 現代の貧困は、経済的な貧しさの問題だけではなく、追いつめられた時に、「助けて」と言える関わり合いさえも失った、人と人との関係性の貧しさの問題でもあります。
 このような状況の中、私が奉仕する教会では、4年前から、アパートを2部屋借り受けて、行政や福祉団体と連携しながら、経済破綻や家庭内暴力などの理由で住まいを失った人たちが一時的に避難し、新しい生活を準備する仮住まいとしての、民間シェルターを運営しています。
 この3年間で40人近い人たちが、シェルターで生活をし、新たな生活の場所へ旅立って行かれました。
 その人たちとの関わり合いで私が気付かされたことは、心の根っこの部分が傷付いた時、人は「一人ぽっち」では生きていけない、ということです。
 シェルターを開設した頃、1本の相談メールが入りました。1歳と3歳の子どもを抱える30代の女性からで、夫は病気で仕事ができない、とのことです。メールは、「今日は長男の誕生日なのに、ケーキを買うどころか、何も食べさせてやるものがない。もう明日に希望が持てない。夫が帰ってくる前に、子どもたちと心中しようと思う」という内容でした。
 私は食べ物を持って、大急ぎでその人の家を訪問しました。その女性は、生活の苦しさを泣きながら語り続けました。そして最後に、「もう大丈夫です。話を聞いてくれるだけでうれしいのに、食べ物まで運んできてくれて、本当にありがたかった。夫と2人で頑張って子どもを育てていきます」と話してくれました。
 この女性の場合は、経済的に行き詰まり、絶望の淵に立たされながらも、自分を支えてくれている夫の存在や、神様からの恵みとして夫婦に差し向けられた子どもたちの存在が、生きる希望として改めて見つめ直され、苦難を乗り越えていく力となったのです。
 しかし、様々な事情からシェルターに入所してくる人たちの中には、親子や兄弟、夫婦の関係に恵まれず、家庭が「魂の居場所」にならないまま、「一人ぽっち」で社会の底辺をさ迷ってきた若者たちも多くいました。
 20代前半の女性は、母親が再婚したことから、中学卒業と同時に家を追い出され、友人の家を転々として暮らしてきました。彼女は、幼い頃からファストフードのような物しか食べてきておらず、偏食がちで、摂食障害も患っていました。
 夫婦の関係が壊れ、離婚してうつ病になった30代男性は、睡眠薬を飲み過ぎて薬物中毒になり、ほとんど食事がのどを通らないような重い摂食障害になってしまいました。
 その彼は、シェルターを退所した後(あと)、毎日教会に通ってくるようになりました。神様の前で、一緒にお祈りをし、心に溜(た)まった怒りや悲しみを言葉にして語るようになりました。そして、教会に通い、自分の思いを自分の言葉で語ることを繰り返していると、少しずつ怒りや悲しみとは違う感情が芽生えるようになってきました。
 それは、彼が心の奥底に抱いていた、将来への夢でした。自分の夢を語り始めてから、食生活も自ら意識して整えるようになり、次第に生活のリズムを取り戻していったのです。  
 金光教の教会は、地域に生きる全ての人たちに開かれた、「魂のシェルター」です。悲しい時、生きづらさを感じた時、自分は「一人ぽっち」だと思ってしまった時、いつでも訪れてください。悲しければ悲しいまま、その心を受け止めてくれる居場所があります。
 そして、どの教会にも、苦しみや挫折の中で祈りを捧げ、希望の光を見い出してきた人々の、無数の物語が渦巻いています。その助かりの物語は、人は皆神の愛(いと)し子であるということの証しの物語です。そして、その物語こそ、傷付いた心と体を癒やす、透き通った、魂の食べ物なのです。

 


 

《TOPへ》