シリーズ「あなたへの手紙」第2回
●結婚願望のない娘/教会へのお供えはいくら?

金光教放送センター


 おはようございます。金光教墨染教会の松岡光一です。
 滋賀県にお住まいの60代の女性からのお尋ねです。
 「私には、実家住まいの40歳目前の娘が一人います。仕事が楽しく、一人でいるほうが気楽だからと言って、困ったことに、全く結婚願望がないようなのです。お付き合いをしている人はいるみたいなのですが、お互い同じ気持ちらしく、親に紹介すらしてくれません。昔に比べて結婚も遅くなっていますし、色んな生き方があるのもテレビを見ていて分かりますが、私からしてみれば、今は良くても将来一人では寂しいだろうし、まだ孫の顔を見たいという気持ちもあきらめきれません。どうにか考えを改めてもらおうと口酸っぱく言っていると、娘と口論になってしまうこともしばしばあります。どうしたら、娘が結婚に前向きになってくれるのでしょうか」
 このようなお尋ねです。

 そうですよね。親とすれば、娘には、結婚してほしいし、お付き合いをしている方があるなら、なおさらそう思いますよね。それにしても、お話を聞かせていただくと、娘さんのことを本当に大切に思っておられるお母さんなんだなあと、その優しさを感じます。口やかましく結婚のことを仰るのも、娘さんに幸せになってもらいたいという、愛情の現れなんだと思います。
 ただ、少し背負い過ぎておられるのではないでしょうか。大切な娘さんですから、放っておくようなことはできないかもしれませんが、お母さんが背負っておられるものを一旦おろしてみてはどうでしょうか。
 金光教には、「心配する心を神に預けて、信心する心になれよ。おかげになる」という教えがあります。娘さんの先々の心配を一人で抱え込まず、神様にお願いしていくことをされてはいかがでしょうか。
 それともう一つ。親子に限らず、自分の意見を押し通そうとすると、どうしても争いが起きてしまいます。娘さんの気持ちを自分に合わせるように変えようとするのではなく、あなた自身の心持ちを変えてみてはどうでしょうか。娘がここまで立派に成長してくれたこと、仕事も頂けて生活ができていること、お付き合いをしている男性がいてくれていること、そのことを、「ありがたいことだ」と喜んでいく。そんな心持ちになられてはどうでしょうか。そこから、娘さんとの関係も変化し、新しい道が開かれてくるように思います。

次に奈良県にお住まいの70代の女性からのお尋ねです。
 「少し前に、友人に誘われて、金光教の教会に初めてお参りしました。なかなか誰にも言えないでいた家族とのお金の話など、心の底にずーっとたまっていた気持ちを何時間も先生が聞いてくださり、一緒に神様にお願いをしてくださったことで、とても心が軽くなった感じがしました。ただ、ご祈祷料をいくらお供えしたらいいのか分からず、先生に聞いてみても、『決まった金額はありません。お心次第です』と言われ、大変困りました。年金生活なので、そんなに大きな額は払えませんが、少な過ぎると失礼になってしまうのでは、と思ってしまいます。どうしたらいいのでしょうか」
 このようなお尋ねです。

 教会にお参りされて、心が軽くなったとのこと、良かったですね。でも、お供えのことで、せっかくすっきりした心をまたモヤモヤさせてしまったようですね。仰る通り、はっきりと金額を示してもらったほうが、変に気を使わなくてすっきりするかもしれません。
ただ、一つ分かっていただきたいことは、ご祈祷料とおっしゃっているものは、神様へのお礼のお供えであって、それは、決して教会の先生の働きに対する、いわばサービスに対して支払っているものではないということです。
 金光教の教祖様は、お供えに関わって、次のような教えを残しています。
 「金光大神は金銭を目当てに拝むのではない。難儀な人を助けなければならないから、『お供えのことを思わないで、こづかいだけのくり合わせを受けられた時に参りなさい』と話しているのである。信心しておかげを受けた時に、心任せのお供えができるようになれば、供えた者も喜びであろう」
 この教えにあるように、教会の先生も、金銭を目当てに日々の勤めをされているのではありません。難儀な方に、一人でも助かっていただきたい。金光教の信心に触れ、生き方が改まり、助かっていかれることを願いとされているのです。
 お金というのは、大きな力を持っていますから、取り扱いを間違うと、こちらがお金に振り回されることがあります。
 神様へのお供えについても、そのことで、かえって人を痛めることになりかねない危うさを持っているのです。ですから、金光教では、それぞれの喜びの心からお供えするあり方を大切にしているので、お供えの額は、お心次第ということになるのです。
 世間体などは気にせず、自分に納得のいく、もっと言えば、お供えすることで、あなた自身が喜べる、そんなお供えが、神様へのお供えになるのだと思います。

 


 

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