●台風

金光教上野教会
近藤栄一


 私の住む三重県伊賀市は、四方を山に囲まれた自然豊かな城下町です。俳聖・松尾芭蕉生誕の地、また近年は忍者ブームで、伊賀流忍者の里として、外国人観光客もたくさん訪れます。さらに、秋祭りのだんじり行事が一昨年、ユネスコ無形文化遺産に登録され、「文化薫る歴史のまち」として、町を挙げて観光に力を入れています。
 さて、私には、娘と息子の2人の子どもがいます。今は、社会人としてそれぞれの道を歩んでいますが、その子供たちが小学生の時のことです。伊賀は、大きな災害の少ない町ですが、非常に勢力の強い大きな台風が来たことがありました。その日は、朝から警報が発令され、子どもたちの学校も休みとなり、自宅で過ごしていました。正午を過ぎた頃から、雨も風も強くなってきました。
 子どもたちと、「台風がひどくなってきたな」と話しながら、廊下で外を眺めていると、近所の家の瓦が飛び始めました。さらには、倉庫のトタン屋根も風と共に吹き上げられ、空へと舞い上がりました。後でニュースで知ったことですが、最大瞬間風速は57メートルを超えていたそうです。近隣の店の看板は飛ばされ、街路樹は折れ、町の広い範囲にわたって停電が起きました。電話も通じにくくなり、私が経験した中では、一番大きな台風であったように思います。
 私の家は、屋根の銅板がめくれ上がったり、雨漏りがしたくらいで、大きな被害はありませんでした。しかし、子どもたちを始め家族みんなが、不安な一時を過ごした台風でした。夕方、その台風は過ぎ去っていきましたが、停電は続いていました。
 その日は、子どもたちが毎週楽しみにしているアニメのテレビ番組がある日でした。「お父さん、停電でテレビ見られへん。おもしろない。つまらへん。何でこんな台風来るんや」と、ぶつぶつ文句を言い出しました。私は子どもたちに、「あんたらだけやないで。どこの家も停電や。はよ電気が来るよう、神様にお願いせなあかんな。すぐ元に戻るわ」と言い、妻には、「明るいうちにご飯の用意をして、早めに夕飯を頂こう」と言って、電気の復旧を祈りました。
 夕食の時間になっても停電のままだったので、ろうそくを探し出し、その明かりで夕食を食べ始めました。しばらくすると電気がつき、いつものように明るい食卓になりました。すると、私の母が、自分が体験した戦争の頃の話を始めました。「今はスイッチ一つで当たり前のように電気がついて、明るい中で何でも出来るけれど、当時は、灯火管制といって、明かりが外に漏れないよう、電球の傘に黒い布を掛けて、その中でご飯を食べたり、勉強したりしたんやで。停電もしょっちゅうあったなあ。あんたらはええ時代に生まれたんやで。終戦の日、灯火管制がなくなって、明るい電気の下でご飯を食べた時のうれしさは、何とも言えへんだな。戦争は絶対あかん」と、平和な世の中、便利になった今の時代に感謝しながら話をしてくれました。
 母は、当時大阪に住んでいたので、度重なる空襲で自由に電気も使えなかったのです。父も、戦争のことを思い出したのか、うなずきながら、実家は空襲で丸焼けになったと話してくれました。
 子どもたちは、「ふーん」と言って聞いていましたが、私はその時、「今日はこうやって、少し不自由な思いはしたけど、ええ経験やったな。この停電の間にも、電力会社の人たちは、電気の復旧のために一生懸命力を尽くしてくれているんや。文句ばかり言ってないで、感謝せなあかんな」と思いました。そして、子どもたちに、「ご飯を食べ終わったら、お父さんと一緒に電気の会社の人にお礼の電話をしよう」と言い、妻も、「それはええな」と言ってくれました。
 夕食が終わり、早速子どもたちと電力会社に電話を掛けました。忙しい中、迷惑かと思いましたが、何回か掛けてやっとつながりました。「電気の復旧を子どもたちがお礼したいと言っていますので、替わります」と、息子に受話器を渡しました。息子は、「おっちゃん、電気つけてくれてありがとう」と言いました。娘にも受話器を渡そうとしましたが、恥ずかしかったのか、その場から逃げていきました。私も事情を説明してお礼を言いますと、電力会社の方は、「そんなことを言ってもらったのは初めてです。苦情の電話ばかりで、その対応に追われていました。こちらこそありがとうございました」。そう言って下さいました。私も、改めてお礼を申し上げたことでした。
 金光教の教祖、金光大神は、「信心する者は、山へ行って木の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれ」と教えています。またそのことを、先の金光教教主は、「『世話になるすべてに礼をいう心』を忘れてはならない」と教えています。台風という不安で怖い思いをした一日、停電で不自由な思いをした一日でしたが、家族みんなが、感謝の気持ちを持つことが出来た、貴重な一日でした。

 


 

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