教学研究会

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第57回教学研究会



 開催日:平成30年6月15~16日

第57回教学研究会

 6月15、16日の両日、金光北ウイングやつなみホールで、第57回教学研究会が開催された。

 今回は、昨年の大会テーマ(「資料と信仰観、その関係性への眼差しⅡ」)を引き継ぎ、資料と信仰観が相互に作用し、更新し合う関係性に着目して、そのような関係性が成り立つ基盤について議論を重ねた。

 第1日には、大林浩治所長が「資料の『新しさ』について」と題して、これからの教学研究を展望する基調講演をし、引き続き8人による個別発表が行われた。

 第2日の全体会では、議論の主題を教祖研究分野に設定し、〈教祖関係の資料〉と〈金光大神その人やその信仰へのイメージ〉との関係性について、「『信仰の場』をめぐる聖性と創造力」をテーマに、発題、コメント、全体討議が行われた。

 以下に、第1日の基調講演、個別発表の題目と、第2日の発題、全体会の概要を記す。 


第1日 基調講演



「資料の「新しさ」について」 大林浩治 所長


大林浩治(金光教教学研究所所長) このたびの講演の狙いには、次のような研究状況が関わっています。新たな研究者による成果が発表されつつあり、そこに新しい問題関心があること。また、教団に新しい資料も加わった。これらの動きを全体的に把握してみる要があるのではないか。それは、教学研究にとってどういう動きなのか、この機会に話してみたらどうか、ということです。

 そうした狙いを受け止めながら、私は、「新しい」とはどういうことかと考えさせられました。根本から、「新しさ」が問題になる場合、それは人がとてつもない事態に直面しているということを意味します。その時その人は、「新しい」とは言わず、むしろ「分からない」と言うのではないでしょうか。つまり、新しさは直感できたとしても、それ自体うまく言葉にできないんじゃないかと思われます。

 本日は、資料に関わって、そんな分からなさに直面している、主に本所の若手事務職員や若手研究者が抱いた実感のありようを取り上げ、資料と教学研究との関係性についてお話しします。

 加えて、このたび新たに加わった教祖関係の資料についても、いくらか述べてみたいと思います。そうして、神との関わりを生きる「新しさ」(未知)を、資料を前にした私たちの「新しさ」と重ねて見ていければと思います。

 さて、資料には、事柄に意味の正しさを与えたり、議論を確実なものとさせるなど、研究に「役に立つ」という働きがあります。けれども、それは、研究から見た意味でしかありません。資料そのものからすればどうなのか。どうも根本のところでは違うのではないか。意味の正しさや確実さを与えるところで、むしろ、常にそれがいかに正しいのか、ここではいかに歴史であるのか、といったその確かめを私たちに求めてきているように思うのです。

 そのことを考えるために、資料について言及している青木茂「先覚伝の調べ方に就て」(『金光教報』昭和19年、20年)に注目し、この文章をめぐって若手事務職員の小玉さつきさんと意見を交わしたことを述べてみたいと思います。

 いくつかの質問を投げかけていくと、小玉さんは戦時中にその文章が書かれた理由や、青木がなぜそれを書こうとしたかについて、考えが及んでいきました。

 青木は、資料から文字の羅列を読むだけでは不十分だと述べています。そこに生きた「人」を読み取り、その人の呼吸を感ずる体のものでなければならない。また、そのために厳然たる客観性も要求されると。そんな青木の文章を読んで、小玉さんは、戦争中に「戦争」という問題をも超えた大事な意味を資料からくみ取る必要を述べていたことに気付いていきました。

 当初、彼女は、このような青木の考えを「分からない」と述べたのですが、それは、青木の痛切な思いを自分の言葉で言い表せずに出てきた言葉だったように思います。彼女の「分からない」は、私には懐かしく、ちょっぴりうらやましく、大切なことだと思いました。

 というのも、それはかつて私が当時の資料を読んでいたり、戦時下の研究をしていた時に抱いた思いだったからです。そして、小玉さんのその言葉こそ、ここで考えてみたい「新しさ」の感覚だと思えたのです。知るに値し、驚くに値するものは、いつもうまく言えない何かではないか。そしてそんな「新しさ」の感覚は、常に資料から与えられていて、私たちに資料を見る目を立ち上げさせてくれているのではないか。人を研究へ誘うところには、きっとそんな「新しさ」の感覚があるのではないでしょうか。

 では、研究者のところでは、どう表れているのでしょうか。

 若手研究者の中に「資料には自分に理解させない何かがあるんです!」と言った人がいます。教団史研究に取り組んでいる森川育子さんです。彼女は「儀式服制等審議会」(儀服審)の資料を取り上げています。

 彼女の研究のきっかけは、教団史の資料整理の時に、戦前の本部教会所の図面を見たことだそうです。その図面では今で言う「内殿」が「外殿」とされていました。そして、内殿は御扉の中と書かれていたのです。これまで彼女は、昔と今とでは、いろいろ違っているなあとぼんやり思っていたそうですが、それを明確に意識させたのがこの図面との出合いだったことになります。

 彼女は、当然とされてきたことを、変化する歴史の中で受け止めようとしています。当然と思うようなことにも歴史がある。そんな驚きが張り付くことで、彼女にとってむしろ変化する動きの方がリアルだと受け止めることになったのです。

 そして、彼女の研究関心は儀服審へ向かいました。儀服審の資料は彼女に、「当然のことにも変化がある」という、そんな見え方を証す素材になっているように思われます。

 かつて、儀式服制に関する議論では、「本教独自の様式を具体化しよう」「神道形式から脱却しよう」といったものがありました。こんな見方を支えていたのは、戦後の自主・自立を基調とする考え方だと思われます。その考え方は、本教と本教ならざるものを見極め、本教にとって本質的なもの以外を淘汰していくような在り方です。

 しかし、彼女にすれば、このような見方を支えている戦後民主主義のリアリズムは、一つの見方の形態でしかありません。そしてこの見方では、昔と今とを「違い」として見ることになった理由の解明はできません。しかしそうとはいえ、そんな歴史への関心を与えた資料の「リアル」は、うまく言えないものであり、研究の俎上(そじょう)に載せるには、かなり困難だということも思わされます。でも、そのことが彼女にとっての研究のやりがいになっていると言えるでしょう。いずれにしても、彼女の研究のきっかけになった疑問は、「何も知らない自分」だからこそ誰もが抱くものではないでしょうか。

 このようなことは、教団に新しく提供された教祖関係資料を見ている私にも起きてきました。ここでは、教祖が記した二つの金銭関係の帳面について紹介します。

 一つは、「神の頼みはじめ」として知られていますが、教祖が神様から弟繁右衛門への援助を頼まれるという安政4年の出来事から記されているもの。もう一つは、神前奉仕を頼まれる安政6年から記されているものです。これらは、「覚書」「覚帳」と同様に、神から促されて書かれています。

 出来事を帳面に記していくところにあるのは、自分の振るまいが、ある意味付けを与えられるところで捉え直される働きでしょう。こうも言えます。自身の行為に意味付けが与えられるところには、なにがしかの変換作用が働いていると。その作用の中で、教祖は、自身の行為を取り上げ、それを「神との関わりの領域」へ移し替え、見返していることになります。その時教祖は、自分の行為をとおして自身の姿を確かめることになっているようです。

 このように、自身の行為を取り上げていくということは、神との関わりを生きる問題として、「信」をめぐる実践を形作っていると言っていいでしょう。神との関わりを、生きる現実の中で証拠立てていく。そのような「信」をめぐる実践をとおして、自身の姿を見返すことになったのではないでしょうか。

 「信」に突き動かされて、見返すことになっているのは、表紙の具合からも感じられます。ここには自身の生を神の頼みへ適応させていった様子が書かれています。その適応とは、自身や社会を問うように生きさせる「別の生」、神号を有して生きる生と言ってもいいでしょう。また、差し向けられた生、取次に生きる生と言ってもいいと思います。そうした「別の生」に向けて、これまでとは違う新たな生への配慮を自分自身に構えさせたように見えます。

 これら帳面によって、これまで知られていなかった事蹟が認められます。そして、そういう事蹟も含め、新たな資料全体をとおして、あるいは「覚書」「覚帳」も含めた全体をとおして把握されるべき信心としての意味合い、神との関わりの意味合いが、より大事な問題となっていくと思います。

 こういうことが、いろいろと見ながら浮かび上がってきたような内容です。

 ここまで述べてきたのは、資料は、資料を見る私たちの目の方を作り上げてくれるということ。今や歴史、そして自分自身を問題にし、問い返すような、語るべき私たちの立ち位置を確かめさせてくれているのではないか。資料は、今や歴史、それまで思い描いていた信心に対する新たな知見の手掛かりになると同時に、絶えず何か妙な折り合いのつかなさや、未知な感覚を与えてきます。

 そのような未知としての「新しさ」を知る経験は、教祖のところでも生じていたのではないでしょうか。それが、信心の実践と噛み合う教学の意味につながっているように思うのです。


第1日 個別発表



A会場


堀江道広(助手)「「金光大神直筆帳面1」について」」
村山由美(羽曳野)「女性布教者をどう読むか―フェミニズムの視点から―」
姫野教善(厚狭)「『どのようにして』教祖が天地金乃神を生み出したのか」
高橋昌之(所員)「語られた『老い』の諸相とその意味」


B会場


森川育子(助手)「儀式服制等審議会における『奉斎』をめぐる問題意識とその視座」
須嵜真治(助手)「明治三十八年の教会長講習会における『教導』とその課題」
山田光徳(所員)「川上郡吹屋町における近代化と教会」
児山真生(所員)「戦後教団における『教会隣組』の教規化とその背景―『戦後占領期の布教施策をめぐる「自主」とその意味』の論究に向けて―」



第2日 全体会



趣旨


 近年、教団に新たな資料が提供された。その中には金光大神直筆の帳面をはじめとして、在世時に作成された広前関係の帳面類等があり、金光大神の新たな側面が浮かんで来ることが期待されている。

 研究成果が俟またれている現在、「覚書」や「覚帳」と関わらせての検討がより重要になると思われる。とりわけ「覚書」については、新たな資料の存在から、金光大神による吟味の内容がより一層明らかになるのではなかろうか。

 金光大神にとって「覚書」を書き出すということは、お知らせにあるように「一場」の意味を問うていくことであっただろう。と同時に、それがどのように成り立ち、支えられていたのかを実感することでもあったのではないか。

 このような金光大神の取り組みのありようを私たちに振り向けてみたい。金光大神にとっての「一場」とは、私たちにとっての「広前」であり、さらに「結界」とも、「教会」とも、「霊地」とも読み換えさせてくれるものである。このことを本会では緩やかに「信仰の場」と押さえ、金光大神、そして私たちにとっての「信仰の場」がどのような関係性の中で成り立ち、支えられてあるのかを問うてみたい。

 発題では、「信仰の場」をより広やかに掘り起こすべく、
  1. 地域伝承への沈潜とそこからの視座提示(渡辺発題)
  2. 地域の人々が生み出す信仰イメージと本教信仰の相互的関係の紹介(佐藤発題)
  3. 新たな資料に浮かぶ教祖像再把握の可能性の提示(白石発題)
がなされる。これらのことを通じて、既存の知的・学的認識地平への問いかけを試みる。

発題


 「地域伝承と「覚書」の語り」 渡辺 順一(教学研究所嘱託・羽曳野)


渡辺順一(教学研究所嘱託・羽曳野) 本発題では、「覚書」執筆に際した金光大神の関心の究明と、それが今日に投げかける問題を明らかにするべく、神話/物語論によるテキスト解釈の方法を参照しつつ、二つの点について論じる。

 「覚書」執筆を促す明治7年のお知らせと、「覚書」冒頭の金光大神出生の記述には、「生まれ所」や生まれた時への強い関心が読み取れる。まず「場」に注目すると、金光大神が生まれた占見村は、遥照山麓に位置し、さまざまな神仏が祀まつられていることや、古代のたたら場の遺跡や安倍晴明の伝説など、陰陽道・金神信仰などの場が形成されていたことがうかがえる。

 また、生まれた「時」に注目すると、旧暦8月16日暮れ六つ前は、西に沈む太陽と東に昇る十六夜の満月が、共に天にそろう時刻である。このことは、氏神である大宮神社の祭礼日ということとも相まって、金光大神当人に出生への感懐を抱かせたと考えられる。

 その上で、「覚書」執筆の要因と考えられる明治6年8月19日の神伝との関係性について考察した。同神伝は天地金乃神の神性開示であるとともに、総氏子の助かりに向けて差し向けられる「生神金光大神」の存在が示されており、「生まれ変わり」を経た新たな生が示されたものでもある。それは、解体され再編された社会の信仰とは一線を画し、新たな世界の始まりが差し向けられてくるものであり、特別な存在として誘われたものである。

 このような世界の始まり・中心となる神話論的な「時」と「場」は、金光大神その人にとどまるものではなく、神との関係に生きる人の数だけ生成するものだろう。


 「神様と歴代の布石」 佐藤 剛志(根雨)


佐藤剛志(根雨) 本発題では、地域の人々にとっての本教教会との関わりや信仰の様相を、発題者の実体験に基づいて述べる。

 私が中国地方最高峰である大山(だいせん)南側の裾野に位置する根雨教会の後継となり8年になる。根雨には、自分が思い描いてきた金光教とは異なる営為が根付いており、当初はカルチャーショックを抱いた。

 特徴的な地域行事として「恵方参り」がある。大みそかから新年を迎えると、町の人々はまず、氏神である根雨神社に参拝し、続いて根雨教会、最後に出雲大社教へ参拝する。当初はそのような行事自体を知らず驚いたが、近年では迎え入れる態勢を調えてきている。土地の習わしの中に金光教が入っていることの違和感を感じつつも、何とも言いがたいおもしろさとありがたさを感じている。

 また根雨は、祓(はら)いや清め、ご祈祷(きとう)の依頼という、いわば拝み信心の根深い地域である。土地の言い伝えに、「家を構う時や、土地、水回りを触る時は金光さんに拝んでもらえ」というものがある。屋根替えや家屋の解体、田の水路修繕などがあれば教会に願われ、最近はリフォーム関係のお祓いが多い。中には、「他所では日柄や方角に関わって日を決められるが、金光さんならいつでもいいと言ってくれるので」と言って来られる人もいる。

 はじめの頃は、「自分は拝み屋ではない」と意地を張っていたように思うが、当事者はそれぞれ真剣な思いで願っている。今ではその理由や背景に目を向け、言葉にしがたい思いもしっかりと聞かせてもらわねばと思うようになった。このような体験を通じて、教祖が参拝者と向き合う姿勢にも思いをはせている。焦らず、一人ひとりの参拝者に添った御用の姿を感じさせられている。


 「「覚書」との新たな出会い―金光大神直筆帳面類を通じて―」 白石 淳平(所員)


白石淳平(所員) 本発題では、「覚書」再把握への討議へ向けて、近年教団に提供された資料のうち、金光大神直筆を含む教祖関係資料の概要を示し、それぞれ特徴的な記事について触れたい。

 基調講演でも触れられていたように、安政年間から明治初年までにわたって、金光大神のもとでの金銭融通や、弟繁右衛門の屋敷建築費、元治元年の宮建築費など、さまざまな用途に関わる金銭支出の記録が所収されている帳面がある。これらは明治以前の広前をはじめとした金光大神周辺の動きをうかがわせる。

 また、暦注に記された不浄や、日柄方位などに関する記事、金光大神の出生から明治6年までの略年譜が記された帳面がある。特に妻とせとの婚礼に際した方違えについて、神との関わりで「ご無礼」と押さえられている点は、後に「覚書」の42歳の大患で示される「金神無礼」との関係性が今後課題となる。

 雑多な内容がまとめられたものもある。その中には、金光大神が13歳の時、養父に連れられ金比羅宮へ参拝したことや、自身が43歳の折、12歳の浅吉を伴い、同じく金比羅宮に参拝したこと、その翌年には、浅吉を伴い安芸の厳島神社へ参拝したこと、そして、その記述の終わりには安政6年の肥灰差し止めの出来事が認められた。そこには、養父と自分、自分と浅吉というように金光大神にとって代替わりが意識された可能性がうかがえる。

 これらに加え、金光宅吉が筆写した「別の帳」と呼ばれているものがあり、それは金光大神が明治4年12月のお知らせにより起筆したと考えられる。

 これは、金光大神の出生である文化11年から明治16年までの出来事を年次順に記した年譜帳のような体裁をとっていて、同時期に記されていた「覚帳」や「覚書」のそれぞれの役割などの関係性が今後問われていくことになる。

 以上、新たな資料からは、これまで知られていなかった金光大神の事蹟が知られるとともに、これまで知られ、半ば当然の知識とされていた事蹟が、新資料を交えた新たな観点、すなわち、ここでいう「信仰の場」の問題として問い直される可能性がある。

全体討議


 発題を受けて、八坂恒徳研究員と岩崎繁之所員がそれぞれコメントを述べた。全体討議では、発題の内容をめぐって、出席者がそれぞれの立場や経験を交えながら、質疑応答と意見交換を行った。ここでは、コメントの内容も含みつつ、質疑応答の概要を示す。(▽は質問、▼は応答)

 地域の人々にとって、教会へのお参りが土地の恵方参りという風習のように行われているということだが、教会における日常の信仰の様子がどのようになっているのか具体的に教えてほしい。

 教会の参拝者は、月例祭やお祭りに参拝するというより、目的が建物であったり、土地であったり、病気というように、問題が生じた時に教会に来て、そこで拝んでもらうことに主眼がある。その時に限りおかげを頂きたいと言って来る。それで、おかげを頂き、何より神様の働きを誰よりも感じている。ただし、そこからお道の信心を進めていくということには、どうもつながらない、というのが教会を取り巻く状況である。

 聖性が生まれると、その継続性はどういうふうに考えられるのか。

 教祖は、この霊地のことを聖地とは言っていない。霊地や参拝についての研究もあるが、聖性は参拝する側がそれを見出して作り出している。教祖の広前を模して立教聖場を建てた先人もいるが、その営みというのがやはり大事だったのではないか。教祖が見出していた聖性と、その後の歴史の中で表そうとされてきたものとの関係を見極めていく要がある気がしている。

 これから、新しい資料はどう位置付けられるのか。資料というのは史的裏付けのためのみでなく、各帳面のテキストとしての位置付けも必要になると思うのだが。

 あらためて「覚書」「覚帳」というものの作品性に注目したい。これまで「覚書」や「覚帳」から、何か大きな物語が立ち現れてくるものを想定してきたが、そのように整序される前の感覚を資料から抱かされている。新しい資料の位置付けにとどまらず、今まであったものも含めて、もう一度並べてみる必要がある。その上で、どのような全体があり得るのか構想していきたい。

 発題を聞きながら、地域に根差すべく、かつてのお道の伝え方にあった自由さや広さというものを考えさせられた。教団として組織化、制度化が図られる過程で、布教というものがどのように変化してきたのだろうかという関心を抱いた。これは教義にとっても何か考えるべき問題のように思うが。

 参拝者にとって、神様のイメージは皆違うが、「神様」という言葉でつながっていると思われる。一人ひとりが、その土地柄の中で育まれてきている信仰、神様への思いを大切にしようとしている。ある時、「天地金乃神」という名前から説明すると、相手の方からは「自分が思う神様と違う」ということで、関係を遮断されたことがあった。その時、なぜ自分が説明にこだわっているのかという疑問が浮かんできた。神様がどうこうというより、神様に対して拝むということの中に安心感を頂いている面がある。自分は教内的な用語を極力使わないようにしている。お道の説明よりも、神様のおかげを頂き、より良く生きていきたいという方が自由に参拝できる場所として、お広前を開放して迎え入れるという、シンプルな感じを意識している。直信先覚や先輩の先生方のご尽力の中で信心が洗練されてきて今がある。その一方で、すごく大事なものも、もしかすると削ぎ落とされて今に至っているのではないか、と日々の御用を通じて思う時もある。

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