○ | 言葉には、話し手による多様な前提が備えられている。そのため、家族や友人など、特定のコミュニティが共有する語法や語義が、それ以外の人には理解できないことがある。例えば、勤務する高校の生徒に「生かされている」という言葉から受ける印象をアンケートで尋ねたところ、相当数の生徒が自身の生を「意に反して強いられている」との意味で受け止めていた。 このことは、神からの恩寵という意味を込めて「生かされている」という言葉を認識している本教信仰者と、学生達の強いられた現実実感とが乖離していることを窺わせる。本教信仰者が教外者に向かって話すとき、言葉の前提を共有していない関係では、全く異なる意図で伝わる可能性を考えさせられる。
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○ | 本教に目を向けると、教内コミュニティのみで通用する言葉が多く、その意味や使い方を強調しあうことが、内部での関係構築に資するといった向きの信仰理解の土壌が根強くあったのではないか。そうなると、さらに言葉の意味を限定してしまったり、思考の展開を難しくさせてしまうだろう。この度の議論が、そうした閉塞性を解いていくために、どのような言葉や対話が目指されればよいのか考えていく、一つの切っ掛けとなればありがたい。
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○ | 言葉の前提を共有していない人と話す時、別の言葉に言い換えて伝える場合もあるが、なかなか伝わり難いと感じる。そうした時、言いたいことが自分の体験や実感に落とし込まれ、言葉が生まれるのを待つ必要があるのかも知れない。また一方で思わされるのは、特に日本語の場合、時として主語が明示されないなど、言葉のやり取り自体が曖昧になりがちなことである。ここからすると、話し手と聞き手が心掛けるべきことを確認した上で、双方に生じる意味のズレをある程度までは許容することが、結果的に、より信頼を高める関係の構築に繋がることもあるのではないか。
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○ | 今の世では、人間関係の破綻やねじれが多くの人にとって深刻な問題となっている。そのことは、言葉を通じ合わせるときに、かなり大きな障碍となっていて、互いの理解の妨げにもなっているようだ。例えば、勤めている大学でキリスト教の「隣人愛」について講義した場合、言葉の意味を知識として理解は出来ても、その意味が指し示す内容に関連する具体的事例を想像できない学生が多い。そして、それによって重要となる意味伝達が滞ることになっている。しかし、その打開の一つのあり方として、情緒や感情といった実感に触れつつ具体を説明した後に、知識的説明を行うと、言葉の意味内容が理解できる生徒が多いことも感じている。このことは、言葉の意味が通じないと思われる関係でも、アプローチの向きによっては通じ合える可能性を示すものではないだろうか。
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○ | 一対一での対話に対して、新聞といったメディアを介して考えていくと、一対複数の関係が想定されているといえるだろう。不特定多数に発信するメディアでは、同じ言葉、同じ内容の記事に対して、読み手の数だけ異なる捉え方で反応が返ってくる。そして、そうした反応を踏まえつつ、読み手に届いた先で、言葉が広く展開していくことを想定しながら、記事を制作し、掲載する。こうした一対複数の対話関係のありようは、制作側と読み手が、そのメディアを通して相互理解を重ねているとも言えるだろう。 それは、個人間の対話とは異なる様子なのであり、このことは、本教の教話や教会誌での言葉の投げかけ方を考えさせる。
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○ | 教祖と言葉の関わりに目を向けると、例えば「お知らせ事覚帳」などの直筆帳面には、教祖が何度も追記していることが分かる。そこには教祖が神からのお知らせを記した後、そのお知らせを分かったこととせず、何度も見返しながら意味を確かめ、記す中で言葉としての「お知らせ」が生成していた様子を窺うことができる。そうした様子からは、執筆の中で確かめていった意味内容が、教祖の元へ参ってきた人々に向かって語られていたことも想起させられるのであり、その都度、その内容が展開していた可能性も考えられるだろう。その意味で、現代の私たちもまた、帳面に表れた教祖と神の出会いを通じて、その都度神との出会いを求めていくことができるのではないか。
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