教学研究会

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第56回教学研究会



 開催日:平成29年6月16~17日

第56回教学研究会_全体会

 6月16、17日の両日、金光北ウイングやつなみホールで、第56回教学研究会が開催された。

 近年、「生きる」「暮らす」「働く」に関わる社会的、倫理的意識の見直しが図られようとする中にあって、私たちの信仰観も変化へのとば口にあると考えられる。この度の会合は、資料と信仰観とが相互に作用し、更新し合う関係性を視点に、「資料と信仰観、その関係性への眼差し」というテーマの下、資料との対話を通じて、その時代そこにあった信仰観に迫りつつ、私たちの信仰観、延いては「本教の信仰観」をめぐって、変わり得るもの/変わり得ぬものを研究視野に収めていくことを願いとして開催した。

 第1日は、13名による個別発表が行われ、第2日には、高木博志氏(京都大学人文科学研究所所長)による講演、及び兒山陽子氏(金光図書館御用奉仕)による関連報告、山田光徳所員と土居浩氏(教学研究所嘱託、ものつくり大学准教授)による講演・関連報告から全体会への導入コメント、そして全体会が行われた。

所長挨拶


竹部弘(前金光教教学研究所所長) 開会にあたり、竹部弘(前)所長が大要次のように挨拶した。

 「資料は、教祖にはじまるこの道の信心を求め、信心に導かれて生きた人びとの、また時には生きられなかった人びとの証とも言える記録である。信仰が資料を生み出し、資料が信仰を照らし出すという関係において、それらの資料たちが、あるいはそれらの資料を見て信仰を感じるその心が、今日においてどうなっているのかということが課題になると思う。

 この度は、高木博志氏から講演を頂く。この講演は、「金光教の資料を使用して研究するので、最初の研究成果は金光教で発表したい」という高木氏ご本人からの申し出があって企画したものである。講演で取り上げられる資料は、以前から本所が所蔵していたものである。資料への新たな眼差しが、どのような信仰への眼差しを導くことになるか。またそうした資料への眼差しは、どのような信仰イメージに発しているのか。「資料と信仰観」というテーマの下、大いなる関心をもって臨みたいと思う。

 さらに、出席者の方々と研究所の職員が、日頃問題にさせられている事柄や課題を討議することを通じて、教学研究と全教とが、問題意識の相互交流を図り、本教信仰の新たな理解と課題の認識を深めていく機会となることを願っている。」
 
 以下、第1日の個別発表の題目と、第2日の講演、関連報告、全体会への導入コメント、全体会の概要を記す。


第1日 個別発表



A会場


北村貴子(助手)「「命」に向けられるまなざしについて」
高橋昌之(所員)「「先祖」「精霊」の意味世界―「覚書」「覚帳」における死者の感取に注目して―」
白石淳平(所員)「金光大神直筆帳面類を通じた「覚書」再把握の可能性―「無礼」と信仰史的問いかけの関係をめぐって―」
岩崎繁之(所員)「金光宅吉筆写帳面「別の帳」部分について」

大林浩治(所員)「「金銭遣い」の世と信心」

姫野教善(厚狭)「金神が教祖を生み出し、教祖が天地金乃神を生み出した」

竹部弘(元所長)「人知の鏡―「覚書」「覚帳」と「別の帳」からのお知らせ考―」


B会場


森川育子(助手)「第一次佐藤博敏内局における御取次成就信心生活運動の「推進」とその背景」
須嵜真治(助手)「明治38年の「教会長講習会」開催をめぐる「布教」と「理解」の諸相―「理解」が講義で語られる前提に関わって―」
古瀬真一(阪急塚口)「兵庫・神戸における金光教の布教―湊まちから近代都市への変貌のなかで―」
橋本美智雄(伏見)「教会解散の原因と要因―地方布教史の陰影に視点を向けて―」

桒原隆治郎(都城)「地域における生活と信心と教会と―宮崎県・都城教会の事例―」

児山真生(所員)「戦後占領期の布教活動を通じた「教団」構想―地方賦課金制度導入に注目して―」



第2日 全体会



講演


金光教と遊廓・花街 ―都市布教と民衆―  高木博志(京都大学人文科学研究所所長)


高木博志氏(京都大学人文科学研究所所長) 私は、各地の遊廓や花街をフィールドワークしながら、調査先でしばしば金光教の教会を目にし、「遊廓・花街に金光教の教会が多いのはどうしてか」という関心を持ちました。この関心が金光教と遊廓・花街の関係を研究しようと思った出発点であります。

 それから教学研究の成果や文献を読みました。そして、京都における金光教の布教が遊廓・花街で行われていたこと、また、出口わかや岡本駒之助等の芸能者や歌舞伎役者、マキノ省三等の映画関係者が金光教の信仰をしていたことを知りました。このことによって、「京都の近代」を、その周縁部に形成・展開した遊廓や花街、部落、映画産業等との関わりで研究している私は、金光教への関心をより強く持つようになりました。

 そして、約2年前から教学研究所へ通いながら、京都の遊廓・花街にゆかりのある教会や姫路教会などの資料を閲覧し、研究を進めています。本日は、これまでの取り組みの中間報告として、京都と姫路の地域を中心に、「御祈念帳」などの資料の分析を通じて明らかになったことを交えて、金光教と遊廓・花街の関係をお話したいと思います。


 まず京都における遊廓・花街の歴史を確認しておきます。現在、京都は世界有数の観光都市であり、「もてなしの文化」の象徴のように言われています。このような観光言説では、京都における「性」の歴史や文化は隠蔽されていますが、かつては公娼制度があり、国家による警察を介した管理売春制度があったのです。明治21年以降、娼妓から徴収された税金が地方税に編入され、遊廓が地方自治体を潤すという関係にありました。京都は、島原、祇園甲部、祇園乙部、宮川町、先斗町、上七軒、七条新地等、数多くの遊廓・花街があるように、売春防止法施行(昭和32年)まで観光と売春がセットでありました。現在、祇園甲部には「都をどり」が行われる歌舞練場があります。いまや多くの観光客が訪れるこの場所に、明治期までは梅毒に罹った人たちの病院がありました。ちなみに、京都において女性観光客が男性観光客を上回るのは、1970年代以降のことです。


 金光教の京都布教については、橋本真雄らの先行研究があります。明治13年春頃から京都市内に金光教の信仰が見られることや、明治16年の中野米次郎による説教所設置以降、今日に繋がる布教展開が始まったことが述べられています。また、明治18年頃からは歌舞伎役者の嵐橘三郎などが北座で興行しながら顧客や祇園花街へ信仰を広めていたことや、杉田政次郎が島原遊廓で布教を始めたことについても示されています。

 『風雪京都史』(京都新聞社、1968年)の中には明治23年頃の様子として「近ごろ芸娼妓の信心は、稲荷魔利支天から、金神さまにかわり、京の廓で金神さまが鎮座せぬところなく[…]」という記載があります。この時期と内容から、金光教の信仰が遊廓・花街の中で急速に広がっていた様子がうかがわれます。それとともに、なぜ、どのように広がったのかという布教実態への関心が生じます。

 こうした遊廓・花街での布教の様子をうかがう資料として、中野米次郎の系譜に繋がる開栄組一号から四号の資料があります。このうち、開栄組一号の所在地は「新道通団栗下ル」であります。この場所は宮川町の遊廓の真ん中であり、遊廓の中で布教していたことが分かります。また、開栄組4号には明治20年代前半の「御祈念帳」があります。この資料には、娼妓や妓楼主(経営者)とその周辺者の祈念の内容が記されています。その内容を少し紹介します。

 明治24年2月27日に宮川町の妓楼主が、「きふじにきずをいたしをります」と娼妓の身体のことを願っています。「きふじ」とは京都の言葉で女性の性器を指します。さらに「つこをよふなをりますよふ(都合よう、治りますよう)」、「けんさのぬけますよふ(検査の([を―カ])抜けますよう)」と願っています。この検査とは娼妓の梅毒検査のことです。この妓楼主は同12月5日にも、「たたいまくうばいんにをり(只今、駆黴院(くばいいん)に居り)」として性病に罹患し、隔離されている娼妓のことを願っています。

 このように明治20年代の「御祈念帳」を見ていると、性器の傷やできもののことをはじめ、梅毒検査のこと、駆黴院からの退院のこと、さらに、「見せだし(見世出し)」で人気が出るようなど、娼妓の身上に関わる願いをたびたび目にします。

 娼妓たちは心身に病気、不調があっては仕事ができません。仕事ができなければ年季は明けません。また、場合によってはさらに条件の悪いところへ転売され、借金がかさんでいきます。つまり遊廓から出られないまま死を迎えることになる。「御祈念帳」に記された娼妓の身上に関わる願いは、妓楼主によってなされたものもありますが、それは総じて娼妓たちの肉声でもあったと私は考えています。


 続きまして、姫路教会の事例を見ていきます。まず、姫路には梅ヶ坪という場所に遊廓がありました。これは明治7年の歩兵連隊設置にともない、西魚町から移されたものです。明治42年の『兵庫県統計書』から、梅ヶ坪には貸座敷が9軒、娼妓は80人いたことが分かります。姫路教会の初代である竹部真の祈念詞には「芸娼妓之御氏子ニ置き升ましてハ兼々人気之御繰合ヲ遣升様」とあります。この祈念詞からは、明治20年の布教はじめから、遊廓・花街と向き合っていたことがうかがえます。

 さて、姫路教会の「御祈念帳」には、先に述べた京都の内容と重なるものが多々見られます。例えば、明治26年8月8日には、梅ヶ坪の娼妓が「蔭門疵に痛く」、「蔭門検査ニ附、万事御繰合願」と願っています。これは要するに梅毒検査にひっかかると隔離され、仕事ができなくなるからです。姫路教会の事例を考える上で注目させられるのは、姫路教会と遊廓がある梅ヶ坪との距離であります。姫路教会がある坊主町と梅ヶ坪は約1㎞ほど離れています。娼妓は廓から勝手に出ることはできません。したがって教会へのお参りも自由にはできません。お参りするとすれば、妓楼主と一緒ということになります。

 つまり、梅ヶ坪の娼妓が金光教の信仰をするためには、妓楼主も信者であることが条件になってきます。その意味では、金光教の信仰と遊廓の関係に関わっては、妓楼主の存在が重要になってきます。このことを踏まえつつ、次にこれからの「遊廓論」の課題と可能性に向けて、『遊廓改善旭水講話』(明治44年刊行)の内容を手がかりに、公娼制度がある中での娼妓の現実的救いということに関わって、考えていることを述べたいと思います。


 『遊廓改善旭水講話』とは、佐藤範雄が明治43年に岡山市の中島遊廓の娼妓や妓楼主に向けて行った7回の講話をまとめたものであります。この本の発行者は鈴木昌平という人物です。彼は、梅毒検査や伝染病患者の隔離を行う岡山県立中島病院の院長でありました。佐藤範雄は鈴木昌平の依頼で講演を引き受けました。ちなみに、この中島病院は、移転した岡山教会の跡地に建てられたものです。

 さて、佐藤の講演からは、公娼制度がある時代状況の中で行われていた教えの様子がうかがえます。例えば、「席主たるものは雇人たる芸娼妓等(こどもら)の心を察し、憫(あわれみ)の心を用い、その芸娼妓等は席主たる義理の親の心を察し[…]」と妓楼主と娼妓の双方に説きつつ、さらに娼妓に対しては自暴自棄にならず早く年季が明けるよう勤めることを、そして、妓楼主に対しては娼妓たちの年季が無事に明けるよう勤めさせることを説いています。

 ○
 こうした佐藤範雄の教えの内容を、現在の私たちの価値観、生活感覚で読むと、色々、問題に感じることがあるかと思います。先に述べた、京都の宮川町の妓楼主が駆黴院に入院中の娼妓のことを願っている事例なども、現在の価値観から見れば違和感を覚えるものかもしれません。

 とはいえ、公娼制度がある中では、年季が明けなければ遊廓からは出られません。場合によってはさらに条件の悪いところへ転売され、借金がかさみ、遊廓から出られずに死ぬ者もいます。京都の遊廓・花街の周縁部に金光教の布教が展開した要因には、「御祈念帳」に一つひとつの願いが記されているように、そうした境遇に生きる者たちの声を聞き受け、そして願ってくれるということがあったのではないでしょうか。その意味で、『遊廓改善旭水講話』について言えば、その内容の検討もさることながら、佐藤の教えがなぜ、またどのように娼妓や妓楼主の心に届いたのかということが問題になってくると思います。このことは、今日の価値観ではなく、公娼制度の中の現実性との関わりで問うて行かねばならないと思います。

 歴史の現実との関わりの中で娼妓の救いを考えることが、私自身、これからの民衆史研究にとっての課題だと考えています。この度は、中間報告であり、問題を指摘したまでで答えは出せませんが、これから皆さんと一緒に考えたいと思っています。

関連報告


兒山陽子氏(金光図書館御用奉仕) 講演に引き続き、兒山陽子氏(金光図書館御用奉仕)が、「演劇・映画の資料レファレンスに取り組んで―大正期から昭和初期の『金光教徒』を中心に―」と題する関連報告を行った。

 これは、金光図書館が講師・高木博志氏から依頼された、金光教における演劇、映画の歴史に関する資料レファレンスの作業内容の報告である。演劇、映画の歴史は講演の副題である「都市布教と民衆」の内容とも関わっていることから、全体会に向けた話題提供として企画された。

 報告では、大正期から昭和初期の『金光教徒』から抽出した関連記事を一覧表にして示しつつ、その中から、映画・演劇関係者と本教信仰との関わりの様子と、幻燈や映画の上演と制作の取り組みが紹介された。

 具体的には、大正2年、東京・本郷座での教祖劇が、歌舞伎役者・中村歌右衛門の「平素の御徳に酬いる」との願いから実現したことや、大正5年の大阪・道頓堀中座での教祖劇では、嵐広三郎が鉛毒にかかって九死に一生を得た御礼の思いで出演したことが示された。こうした歌舞伎役者の事例をはじめ、新派俳優、浪曲師などの上演の記事からは、芸能に生きる者が、わが身に受けたおかげの報恩や御礼の思いに発して、道を伝えたい、広めたいという自主的、自発的願いがうかがえると述べた。

 さらに、こうした人びとの信仰に対する自主・自発的思いが、大正末から昭和初期にかけての、各地で活発に行われた幻灯や映画の上演活動や、映画制作(「金光教祖伝」〈昭和8年〉等)を含めた動きとなり、本教における演劇、映画の歴史となってきたのではないかと述べた。

全体会に向けた導入コメント


 講演と関連報告を受けた全体会の議論の導入として、山田光徳所員が教学研究の立場から、土居浩氏(教学研究所嘱託)が空間(場所・景観・環境)の歴史的・文化的研究の立場から、それぞれコメントを行った。

山田光徳(教学研究所所員) 山田所員は、講師からの「近代における金光教の遊廓や花街への布教や信仰の実態」に関わる資料照会に取り組んだ経験から、遊廓と関わりのある教会をどのように把握するかが課題であると述べた。

 具体的には、「廓(くるわ)」の内側に立地する教会のみならず、近接など「廓」の外側に位置する教会をどのような範囲や基準で対象化するか。また、教会の移転をはじめ、信徒総代の交代等を、時間経過とともに変化する教会と遊廓・花街の関係の動態的様相にどのように組み込むかが論点として示された。

 さらに、関連報告に対して、本教における映画が自主的、自発的に展開したことの傍証として、本所の資料を紹介し、昭和初期の本部は映画製作への意欲を表明せず、有志の自主的取り組みに対しては不干渉の姿勢をとっていた様相が示された。そして、本部が映画に対してこのような姿勢をとったのは何故か。また、それはいつからか/いつまでかということも、本教と映画の関係を考えるポイントになるのではないかと述べた。

土井浩(教学研究所嘱託) 次に、土居氏からは、まず、講演で京都市街の説明に用いられた「陸軍仮製図」(明治二十二年)や、関連報告で紹介された大正二年、東京・本郷座で行われた教祖劇の脚本について、インターネット上に公開されている現状との関わりで、そうした資料の活用を通じた研究の可能性が述べられた。

 具体的には、京都市の場合、「陸軍仮製図」をはじめ、「京都市明細図」など、様々な年代の地図が残っており、これら地図の中には、現在、インターネットで自由に閲覧することができ、現在の地図と重ね合わせて見ることもできるものがある。こうしたサービスを活用すると、例えば、講演で取り上げられた教会や、「御祈念帳」に記載された人びとの生活空間が浮かび上がってくる。それにより、資料を、書かれている文字情報で解釈するのみならず、それが作られた環境を交えて解釈することが考えられると述べた。

 さらに、講演で示された「御祈念帳」の内容に関わって、娼妓の性器に関する願いを受けた教師の取次からは、抵抗感から取り上げられにくかった問題に対する取り組みの実際がうかがわれ、今日のわれわれの信仰実践のあり方や信仰観を見つめ直す手がかりになるのではないかと述べた。

全体会


 全体会では、講演、関連報告、全体会への導入コメントの内容を受けて、出席者がそれぞれの立場や経験を交えながら、質疑応答と意見交換を行った。ここでは、講演に関わる質疑応答の概要を示した(なお、▽は質問を、▼は応答を表している)。

 宗教と遊廓の関係について、遊廓は社寺の近くに「精進落とし」として設けられたということを聞いたことがあります。京都の遊廓については、都市の周縁という見方とともに、社寺の周縁という見方もできるのではないでしょうか。

 江戸時代以降の京都においても、社寺参詣と遊廓での「精進落とし」はセットでした。京都の場合、東山をはじめ都市の周縁部に社寺が立地しています。遊廓とともに社寺も都市の周縁であります。宗教と遊廓の関係で言えば、かつて、祇園は建仁寺の寺領であり、七条新地は妙法院の寺領であったように、宗教は地主として遊廓や花街から収益を得ていました。この点は、遊廓・花街に入って布教した金光教と大きく異なることだと考えています。

 講演では、遊廓、花街に金光教の教会が多々あることが述べられましたが、それは意図してのことなのか、それとも諸般の事情により結果的にそうなったのでしょうか。

 遊廓や花街を目がけてという面と、そこが布教に入りやすかったという面の両面があると思います。都市の周縁部には既成教団の救済が充分に及んでいません。このことからは、救済を求める人びとがそこに多く居たということと、その救済を金光教が担おうとしたという関係が考えられます。

 また、遊廓や花街の地域の特性として、活発な人の移動に伴い、様々な人間関係や情報のネットワークが形成されていました。こうしたネットワークが布教の始まりや、その後の広がりに影響したと思います。例えば、京都の場合、嵐橘三郎をはじめとする芸能者が、金光教の遊廓、花街への浸透に関わって果たした役割は大きかったのではないかと思っています。

 「御祈念帳」に記された娼妓の願いの様子について、それらは戦後の売春防止法施行の頃まで万遍なく見られるものなのかどうか。「お届」の件数や内容などに、年ごとの傾向や特徴があるのでしょうか。

 姫路教会の「御祈念帳」をこれまでに見た範囲で言えば、梅ヶ坪の娼妓や妓楼主といった遊廓の関係者の割合が多いのは明治20~30年代初期であります。その後はやや少なくなっている印象を持っています。いま、その理由を述べる用意はありませんが、娼妓の願いの様子については、明治期のもののみならず、また、姫路教会の事例だけではなく、大正期や昭和期の「御祈念帳」を広やかに調べながら考えて行きたいと思っています。

 ただ、このことに関わっては資料状況の問題があります。例えば、京都の場合、明治期の資料は収集されていますが、大正期以降のものは少ない。その意味で、資料の収集ということも今後の課題の一つになってくるのではないでしょうか。

 娼妓に関わる願いの内容として、病気の回復や梅毒検査のことが示されましたが、娼妓を廃業したい等の願いはあったのでしょうか。あるいは、廃業を願うことができないという制限の中で、祈願可能なものとして病気回復を願っていたということになるのでしょうか。

 また、この点には、願い届けた人物が、娼妓本人か、妓楼主かということも関わってくると思います。「御祈念帳」の中で、娼妓本人による願いであることが分かるものはあるのでしょうか。

 まず先に、願い届けた人物が誰かということから申しますと、娼妓の駆黴院からの退院の願いを行ったのは妓楼主です。門前教会は、夜間も教会を開けていたと伝えられています。また、色々な教会の文献には、娼妓や芸妓が参っていたことが記されています。こうした伝承、そして宮川町や祇園乙部、甲部、七条新地の立地を考え合わせれば、性器の傷の願いについて、娼妓が妓楼主と一緒に教会に来て、願った可能性を指摘することができます。もっともこの願い届けた人物の特定は、願いの解釈のあり方に関わることであるので、願い事の一件、一件に沿いながら検討していかなければならないと思っています。

 次に、願いの内容についてですが、私は、廃業そのものの願いを見つけてはいませんが、娼妓にとって病気回復の願いは、早く年季が明け、解放される望みとつながった、公娼制度下での現実的な願いであったと考えています。これは、佐藤範雄の評価にも関わってくると思います。佐藤範雄は救世軍が行った廃娼運動について、現実的かどうかという問いを抱いています。この現実的というものの内容をどのように明らかにしていくかが、これからの大きな課題だと思います。
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