教学研究会

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第55回教学研究会



 開催日:平成28年6月17~18日

第55回教学研究会 6月17、18日の両日、金光北ウイングやつなみホールで、第55回教学研究会が開催された。

 この度の会合では個別発表に加え、「時代への眼差しと信仰」をテーマにした全体会を通じて、人間が置かれている現状を本教信仰に向けられたものとして捉え直し、いま求められる課題への認識を深めることを願いとした。

 第1日は、12名による個別発表が行われ、第2日には、中里巧氏(嘱託・東洋大学教授)による講演と、全体討議に向けたコメント、全体討議が行われた。


所長挨拶


 開会にあたり、竹部弘所長が大要次のように挨拶した。

 「私達人間は、様々な不安や不信を抱えながら生きており、それ故にこそ色々な宗教の教祖や開祖がご苦労下されたとさえ言える。

 いつの時代にも問題はあるもので、現代は現代の問題に直面している。そうしたものの中には、原発事故による放射能汚染のように、いつ、どこまで広がるか分からない問題もある。また日々のニュースで流れる事件等を通して、人間の暮らしや生存に関わるレベルのみならず、人間が人間であることの共通理解が成り立ち難くなっている感を受けもする。

 そのような中で、金光大神によって開かれた、「天地の神の道」「安心の道」とも言われるこの道の信じられるもの、信じるに足るものがいかにあり得るのか。そうした問いを遠くに見据えながら、それぞれに心身共に刺激を受け、お互いに信心御用の上で開かれていくものが生まれる研究会となるよう願っている。」
 
 以下、第一日の個別発表の題目と、第二日の講演、コメント、全体討議の概要を記す。



第1日 個別発表



A会場


浅田千枝(助手)「信仰の言葉が現れる場面―邑久光明園金光教求信会での「語り」に注目して―」
北村貴子(助手)「言葉が「理解」になるということ―「子孫繁盛」に注目して―」
白石淳平(所員)「〈物語〉から見た「もらい受け」―「覚書」論への模索―」
岩崎繁之(所員)「金光宅吉筆写資料「お知らせ事覚帳」について」

大林浩治(所員)「「神の頼み」に見る価値転倒」

姫野教善(厚狭)「金神信仰における自己矛盾とその止揚について」


B会場


児山真生(所員)「「教制審議会」における教会論とその問題意識―昭和二〇年代の教政動向との関わりで―」
森川育子(助手)「昭和三〇年代前半の「御取次成就信心生活運動」の様相をめぐって―本部広前造営との関わりに注目して―」
中川智胤(新潟)「通訳の御用を通して思う取次者の在り方と、教祖の信心の超訳―今求められる布教に関わって―」
須嵜真治(助手)「明治三八年の「教会長講習会」開催をめぐる問題意識―本部の教内への働きかけに注目して―」
松岡光一(研究員)「教会布教の可能性を求めて」

山田光徳(所員)「神道金光教会期の「金乃神社」をめぐる人、営み―儀式執行の様相に注目して―」



第2日 全体会



講演


現代的知性の再検討と希求される霊性  中里巧(教学研究所嘱託、東洋大学教授)


 私自身は哲学を専門としている。研究を始めたきっかけは、大学生時代にキリスト教の「罪」「原罪」を何とか理解しようと、デンマークの宗教思想家、セーレン・キルケゴールの思想を読んだことである。それ以来、今日までキルケゴール思想の研究を続けてきた。

第55回教学研究会_中里巧(教学研究所嘱託、東洋大学教授) 現在、大学にある私の個人研究室はキルケゴール協会事務局も兼ねているが、近年、学会での口頭発表や刊行雑誌の論文に応募するのは若手研究者ばかりである。これは、口頭発表や論文の点数が多いほど就職が有利になるという不文律が関係している。一方の壮年研究者から応募が少ない要因としては、専任教員の場合、会議や授業、学生指導など研究以外の業務に追われ多忙だということがある。また、キルケゴール思想を人生の課題として研究するほどの情熱を持続させる困難さもあるかと思う。

 これらから思うのは、哲学思想の知性や知識が人生そのものの意味や意義から乖離していること。そして経済的な営みとしてのみ、研究作業や教育研究職を捉えることが一般化していることだ。まことに不可思議な事態が、あたかも当然のことのように進行している。

 以上は、昨今の学会や大学で起きている出来事の一端だが、このことは、実は、現代的知性とはそもそも何なのか、それは知性や知識と言えるものなのか、という極めて重大な問題に関わっていると私は考えている。そこでこれから、現代日本社会の知性や知識の病理に対する見解を示し、改善していくあり方をお話しできればと思う。

 ○
 さて現代にいたる日本の近代的基礎は、江戸から明治期に西ヨーロッパから移入したが、既にヨーロッパではこの近代西欧社会の基礎に対する根本的批判が展開されていた。哲学的・心理的・宗教的近代批判に限って言えば、キルケゴールは近代批判者として有名である。彼は、現代では想像を絶するほど知的合理性への期待が高まった当時、それでは解決不能な問題として悪のリアリティを語ろうとした。

 例えば彼がその著書(『不安の概念』『死にいたる病』)で、「不安」「絶望」という気分、感情を扱いながら示唆するのは、それら二つのマイナス感情そのものではなく、その発生源である「自由」についてである。人間は如何なる状態でも「自由」を持つとされる。それは善悪に思いを馳せ、行う「自由」であると同時に、人間はその生き方に責任を負わねばならない。彼はこの「自由」であることの恐ろしさを「不安」と呼ぶ。また人間は善からも悪からも「自由」であるにも拘わらず、不可避的に悪を行う希望のない存在であると感知するとき、「絶望」という感情を持つことになるという。このように彼は西欧哲学思想の盲点であった感情や感性に、真理や真実を感知する能力を発見し、悪のリアリティへ向かった。

 このキルケゴールがとりわけ尊敬した哲学者がソクラテスだった。ソクラテスは自分が無知であることの自覚(「無知の知」)の大切さを説き、その自覚から人間を遠ざけ、高慢にさせる最も危険なものとして、書き言葉を非難した。彼によると真理や真実を追究することは限りない営みで、自分の考えや生き方を成長させる。そこで求められるのは、議論を通じて物事の定義化をくり返し、お互いの精神や生き方を改善し合う対話法であり、その本質は話し言葉(声の文化)に立脚しているという。彼は、書くことで知識が固定化され、言葉の暗記により知識が身に付いたかのような誤解を蔓延させるといった、書き言葉の難点を見抜いていたのである。とはいえ彼の哲学思想自体は、弟子のプラトンが対話編という形で書き残すことにより内面化され、深められた。西欧的文化特性は伝統的に、このような読み書きの文化、つまり文字の文化に立脚してきたとも言える。

 その後、声の文化と文字の文化は言語学者のウォルター・J・オングにより、ヨーロッパ文化の二大基層として子細に論じられた(『声の文化と文字の文化』)。その中で声の文化の特徴については、聞き手が望むことが語られ、状況により内容が変化し、生活と密着した実践論理が求められることなどが述べられている。一方の文字の文化は、分析や定義を特徴とし、内面的思考を深めるが、様々な情報が受け手の状況を考慮せず発信されることなどが指摘されている。その上で、声の文化と文字の文化とが相互に作用し、個人と全体において深化、統一に向かうことが理想だとされている。

 そこで私たちが生きる現代の世界に目を向けると、科学技術がもたらす危機的状況が見えてくる。そうした事態を、科学批評作家のニコラス・G・カーは、オートメーション(自動化)やインターネットなどを事例に論じている(『オートメーション・バカ』『ネット・バカ』)。彼によれば、航空機の自動操縦、建築設計用のソフトなど、人間の代わりを務める技術は会社に利益をもたらすが、それを使う人間の能力や創造力を喪失させる方向に働く。また急速に普及するインターネットは、紙のテキストと比較して情報が断片に分けられ、深い読みをもたらさず、私たちの脳を注意散漫な状態にさせる。私たちは、新たな技術により何を得たかだけでなく、何が失われたかを洞察し、行動を選び取る必要に迫られている。

 以上の知見を踏まえ、私たちの周囲を見渡して分かるのは、現代日本社会は知識のモノ化が浸透し、疲弊した文字の文化が声の文化の周囲を取り巻く状態にあることだ。モノ化は関心ある対象のみを全体から切り取り、文脈を省略したことさえ忘れ、対象のイメージを固定化する。全体の調和や相互理解を基調とする声の文化はその優位性を急速に失い、一方の文字の文化は、豊かな精神の母胎であった静謐を手放し、近現代産業の利潤に適する形態に変わりつつある。恐るべきは、私たちがこうした病理に気付かないこと、それも気付いていないことに気付かないことであろう。

 実際に私自身、大学で他の教員や学生達に接する中で、右のような事態が他人事ではないと肌で感じている。そこで講義では、通常、無駄と考えられがちな沈黙や余白、静謐の大切さを示しつつ、合理的知性や常識では解決困難な実存的状況が持つ深い意味や意義について、学生達自身が適宜思い返し、持続的に内省できるよう努めている。そのために既存の宗教の基層となっている霊性や宗教性が、実際に人間が生きる場面において自然に求められる有り様を、彼らに感知してもらう試みを続けている。最近は「遺体」(弔い)、「老人介護」、「介護殺人」などを主題にし、それらを扱う映画を講義の中で見せている。具体的に述べると以下の通りである。

 「遺体」(弔い)については、東日本大震災直後の被災地におけるルポルタージュ(石井光太『遺体』)を原作とした映画を見せ、老人介護については原作者と認知症の母親とのやり取りを描いた映画(原作:岡野雄一『ペコロスの母に会いに行く』)を使っている。介護殺人については、末期癌で余命三ヶ月を宣告された主人公が、自分以外に身よりのない知的障害者の娘を悩み抜いた末に絞殺し、出頭後に警察病院で死去する映画(原作:宅間孝行『くちづけ』)を見せている。また、実際に京都の伏見で息子が認知症の母親を殺し、自身も死のうとしたが未遂に終わった事件(二〇〇六年)について話したりもする。

 こうした映画を見た学生達の反応は概ね好意的である。例えば「遺体」について学生達は、登場人物の言動や表情から、肉体の死を以て人間存在や尊厳が失われるわけでは決してないらしいことを感じている。老人介護を描く映画では、認知症の母親が、既に亡くなったはずの夫や娘時代の自分自身に出会い談笑している場面と、現実の場面とが印象的に重ね合わされるシーンを見て涙を流す学生もいる。介護心中殺人についても、社会的(法的・道徳的)な善悪による判断では、主人公と娘の間にある愛情の強い絆を理解出来ないことを、学生達は十分に納得している。

 このように彼らは、誰もが体験する可能性がある人生の困難において自分の気持ちや大切な人との絆を保つことが、肉体的・生理的あるいは社会的・心理的位相のみでなく、精神的・宗教的位相を以てようやく可能になることを感じたと思う。問題なのは、これを日常の中で、自分自身のこととして受け止めるか否かであるが、省略に省略をかさねる現代日本社会では容易ではない。それは私達にとっても同じだろう。

 しかし、この精神的・宗教的位相が他ならぬ自分にとっても必要だとの実感が霊性ということである。そして、それが日常の些事に潜んでいることについての、宗教的感覚を介した自覚こそ現代日本社会において希求されるべき霊性ではないだろうか。宗教的自覚としての霊性は、誰もが遭遇しうる人生の困難な局面を、時間をかけて声の文化の次元で語りかけることによって、十分に獲得する可能性があると考えている。


全体討議に向けたコメント


○ 光本真一(落合・東中国教務センター)

第55回教学研究会_全体討議に向けたコメント 「世が開けるというけれども、開けるのではなし。めげるのぞ。そこで、金光が世界を助けに出たのぞ」(理解Ⅰ市村光五郎17)との「理解」がある。今日の講演を通してこの「理解」が、人間の思考や歴史、更に人間そのものが壊れ行くことを予見するかの如き言葉として響いてきた。その世界を助けるために金光大神の取次が始まった意味を思わされる。

 取次では、神、氏子、取次者の三者の中で願いや教えが取り次がれ、日常が再活性化される。まさに「声の文化のダイナミズム」であり、祈りと取次が車の両輪のように進んでいく。しかし現実には参拝者を前にして逡巡するなど、取次者の祈りのあり方が問題になると考える。

 また教務に携わる中でしばしば「宗教離れ」が話題になるが、世間の人だけでなく宗教家自身も宗教心の希薄化と無縁ではないと感じる。「便利に流れると礼を失する」という言葉のように、本教の儀式服制、あるいは一般的にも葬儀のあり方等を簡単にすることで、神や故人に対する礼儀や礼節が、宗教心や霊性と共に失われていく恐れはないか。四代金光様の歌にもあるような、全てに宿る天地の命に畏敬の念を抱く生き方がますます大切になると思う。

 金光大神の信心には時代を超えた普遍性があり、時代を助ける力があると考える。めげていく世界の中で私たちはどうあるべきなのか。急激な変化の中で神と人との関係が見失われがちな今であればあるほど、金光大神に立ち返り、その信心を求めていく必要を感じている。

○ 宮本要太郎(教学研究所嘱託)

 講演では知性や知識がモノ化する問題が指摘されたが、それは霊性に対してどう影響しているのか。例えば近年人気を集めるパワースポット等は、霊性やスピリチュアリティがモノ化、商品化されていることの一端を示していないか。その時人間の霊性自体が変化しているのか、あるいは本質は変わらず時代状況を反映しているだけなのか、といった疑問が湧く。

 次に「自由」について。キルケゴールが「不安」や「絶望」の発生源とする善悪の「自由」という観念は、善悪二元論と結びついた唯一神的発想、近代西欧で確立した自律的自己を前提としているのではないか。一方で、現代の日本人が抱える不安や絶望はそれと異なり、地縁や血縁といった伝統的な共同体を失うことに生じる孤独感、無縁の感覚から問う要があろう。同様に伝統的な祭礼や儀式など、日本で霊性や宗教性と見なされてきたものは、先述の共同性と切り離せない。従ってそうした霊性が今日のモノ化したスピリチュアリティに受け継がれ得るのか考えさせられた。

 また講演の中でも用いられた映像文化に関しては、霊性や宗教性を感知するべく用いる場合、作り手の演出に対する批判的感受性が重要となる。映像を用いて霊性を呼び覚ますことの有効性と限界、映像以外の声の文化の可能性も考えたい。

 もっとも、日本の宗教実践の現場では、仏教の読誦や神道の祝詞等、声の文化が主流を占めてきた。金光大神について考えてみると、取次の場では、その時々に具体的な相手に向けて発せられた言葉、語りが重要であった。それが文字なり「理解」として形式化されることで、不特定多数による共有が可能になる。こうして声の文化であるはずの取次の場に文字の文化が非常に大きな影響を及ぼしている中、宗教的自覚としての霊性をどう獲得できるのか、更なる吟味が必要になるだろう。

○高橋昌之(所員)

  現代的知性をその根本から問う講演を受け、教学が人生の意味や意義とどう関わっているのか、改めて考えさせられた。この点について私達の周りにある信心の言葉、例えば日頃接する機会の多い「理解」等の成り立ちを問う必要もあろう。教学の先行成果では、「理解」の言葉が生まれるのは神が所在し、本来は言葉を欠く沈黙の場だとされ、その場との関係を密にする必要性が指摘された。講演でも、霊性が臨在するような沈黙や静謐や余白の大切さが述べられたが、右の指摘とともに今日の人間状況と信仰の関係を求めていく上で重要な論点を含んでいると思う。

 例えば表面に現れた事象の背後にある文脈に沈潜していくことが、宗教的自覚としての霊性を呼び覚ます手掛かりになるとして、それを自分のこととして日常でどう受け止め得るか、との疑問が提起された。この点に関しては、いま現在話している言葉も含め、自分という存在そのものが如何に成り立っているのか、との視点が必要ではないか。研究的に述べると「理解」やお知らせの場面を初め、精霊回向の際に金光大神の口から神や精霊、客人大明神の言葉が次々に発せられたような、不可視な世界と人間との関わりといった面にも関心が及ぶ。今後、それぞれの人間が置かれている文脈への着目を通じ、そこで発せられている声の重層性、響きを聞きながら人間存在の基底へと向かう研究が求められていると思う。 


全体討議


 全体討議では、講演とコメントの内容を受けて、出席者がそれぞれの立場や経験を交えながら、質疑応答と意見交換を行った。主な内容は以下の通りである。

宗教的自覚としての霊性が希求されるとしても、その霊性がモノ化、商品化されているとの指摘があった。現状はその通りだとして、例えば商品化された霊性とは自分の思い通りになる対象であり、果たして霊性と呼べるのかが問われねばならないのではないか。霊性とは自ずと頭を垂れるような感覚だと思われるが、何が人に対してそのように働くのか、より深く考えていく要があろう。

また霊性のモノ化や商品化について言えば、今回紹介された映画の他、アニメや漫画なども身の回りにあふれているが、特に若い人たちは、それらを通じて宗教的自覚を得ることもあろう。その面ではそうした形での霊性も評価出来るとして、モノ化に流れることの意味を厳しく見つめていなければ、これまで人々の間で大切にされてきたことが、瞬く間に失われていく危険性があるだろう。

「不安」「絶望」の発生源として述べられた「自由」に関するキルケゴールの言説は、三~四世紀にまで遡るようなキリスト教の考え方に近いことから、彼は非常に古代的な思想の持ち主だったと言える。その意味でキルケゴールの言う「自由」とは近代西欧的な意味とは異なると考えられるが、そうとして今日の人間状況を捉える上で、当時の盲点とされた感情や感覚に着目する彼の危機感の在処に関心が湧いた。

日本のような資本主義社会においては、講演にあった労働の自動化など、利潤の追求を目的とした科学技術の発達は必然であり、それを否定することは難しいように感じる。しかし産業革命以降の技術はそれを所有する少数者に都合の良い形で発達したことを踏まえると、それが人間全体にとって及ぼす意味を欲の問題として捉えつつ、背後に隠れる根本的な誤りに一人一人が目を向け続ける営みが求められる。

もとは金光大神と参拝者とのやり取りから生まれ、文字化された「理解」を私達が受け取る意味を考えさせられた。それが金光大神の口から発せられた状況を想念し、霊性が吹き込まれるべく祈りながら向かうことで、「理解」が今に甦るのではないかと感じる。このことは取次の場面などで祈りながら聞き、祈りながら話すという実践にも深く関わるだろう。

書くことで知識がモノ化される一面はあるとして、講演でも述べられたように書く行為それ自体が声の文化より劣っているとは言えない。例えば筆者が全身全霊を傾けて書いた文章を読むことによって、そこに込められた霊性が感じ取られ読者に働きかけるということが有り得る。ここからは、「覚書」や「覚帳」を金光宅吉が筆写する行為と、それを著した金光大神の発現にも関心が及び、改めて直筆資料に触れることが持つ可能性を考えさせられる。
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