第二次派遣隊活動

  • 第2次派遣
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■第二次派遣隊活動報告書
2011年4月18日(月)~22日(金)
【4月18日】10:00大阪センター発東京経由0:00仙台のアパート着
【4月19日】現地でボランティア活動をしているホームレス支援機構のK氏と昼食を共にし、現地の状況等を聴取する。
①孤立した集落の場所、探し方を聞く。北上町、牡鹿など、市町村合併前の旧町に行くことを勧められる。
②お寺や避難所に、孤立集落がないか聞くことも有効。
③物品のニーズは時々刻々と変わっている。これからは、履歴書作りのためのデジカメ・パソコン・プリンターや、洗濯機、物干し場、LLサイズのジャージ、化粧品、長靴、革手袋、目薬、曲がるストロー、洗濯物干し、春物の服、液体洗剤、デツキブラシ、たらい、バケツ、ホースリールなどが必要となってくる可能性がある。
④仮設住宅は、七夕をめどに建てるという政府の方針がある。
⑤欲しい物品があれば、K氏の所でもらえる可能性がある。
15:00南三陸町志津川地区の視察志津川から南下
16:00旧北上町(現石巻市)の孤立集落(生き残った家3軒、半壊1軒)を発見。
1軒のみ在宅されていたので話を聞き、物資(水や食料品)を配給。
①避難所に行けば、色々ともらえるが、家が残っているので行きにくい。
②水を汲みにいくことが非常に困難であり、その日は雨が降っていたので、汲みに行けなかったとのこと。
18:00避難所になっている老人ホーム(50人収容)にどら焼き等を配給。
18:30被災を間逃れたお寺の避難所(20人収容)にどら焼きを配給。
【4月20日】11:30気仙沼教会に参拝し、物資(酒、肉、どら焼き等)を届ける。教会長先生と奥様先生と懇談。①3件の行方不明の信奉者宅があり、うち1件は亡くなっていた。
②昔の信奉者宅の捜索に行った。ご神米を渡すと、大祭に参ってきて、「また、はじめさせていただきます」ということがあった。
③娘さんが避難所に行ったら友人がいて、服の着替えが無いとのこと。差し当たり娘さんの衣類を渡した。
教会の上にある避難所に届いた野菜を近所に配布する手伝いをする。近所の家にも物資を渡す。
13:00車内で昼食をとりながら、陸前高田、大船渡を目指す。途中、旧唐桑町(現気仙沼市)の大通りからけもの道を上がった所に約10軒の孤立した集落を見つけ、物資の配給をする。
①一番奥にあった家は、道が寸断され、車での外出ができないため、非常に困った様子だった。
②ライフラインが整っていない。自衛隊は、ほんの数日前にやっと来たとのこと。
③家が流された町会議員親子、思い出の品を探している夫婦、子供連れの主人に物資を配給し、話を聞く。
15:00陸前高田、大船渡を視察。
【4月21日】09:00女川、牡鹿を目指す。
11:00道中、石巻で子供を発見し、車を停めておもちゃを渡したところ、周りの民家の人が群がってきて、物資の配給を求められた。ある程度は配ったが、非常に恵まれている町のようで、ガソリンやビールを欲しがるような方もいた。ガソリンも、ほぼ満タン入っているにもかかわらず欲しがり、「隣の人の分も」などと言われ、どこか貰い慣れている様子であった。場所による格差、不平等を感じた。
14:00女川町に到着あまりの壊滅状態に声も出ない。高台に、5軒ほどの孤立集落を発見。物資を渡し、リアルな話を聞くことができた。
①一番上頂上にあった家の当主は、海産物の加工工場を経営していたが、車と会社を流される。ガラガラという音とともに、「助けてくれ」と叫ぶ声が方々から聞こえたが、どうすることもできず、ただ見ていることしかできなかった。報道では、津波の第三波が大きかったなどと言われているが、実際は、一度目の波で全てがさらわれたと、一見、屈強な海の男に見えるおじさんが、涙ながらに語ってくれた。
②その集落の方が大通りに出る唯一の道に土砂が積まれており、一度、住民が撤去したが、次の日にはまた積まれていた。通りかかった自衛隊員に土砂の撤去を依頼したが、その際、自衛隊員が「え、この上に誰か住んでらっしやるんですか?」と驚いていた。完全に孤立している状態である。
19日に訪問した旧北上町(現石巻市)の家を訪問。
①ポリタンクの水で、お風呂を一杯にしてあげた。
②19日には不在だった近隣の住民3軒にも物資を配給した。
③一番低い場所にある住宅のおじいさんから聞いた話。「向こうの山が動いてこちらに向かって来たかと思った。とにかく、犬を先に逃がし、坂を登ってくる老人を車に押し込んで、坂を駆け上がった。ギリギリで助かった」。
15:00 19日に日没のため先に進めなかった旧北上町の他の集落を訪問。
①避難所の民宿を訪問。パスで移動し、避難所に食事を取りに行っている様子。子供のおもちゃ、お酒や甘いものを配給。
②湧き水をナベに入れ洗車していたおじさんと話し、物資を配給。破壊された家と家の間で洗車している様子は、異様な光景であった。深々と頭を下げて、車を見送ってくれた。
③尾浦漁港に到着。壊滅状態。家を片付けに来ていた人に飲み物とお菓子を配給。非常に喜ばれる。
④避難所の保福寺を訪問。曹洞宗のお寺だったので、物資提供はシヤンテイーに任せる。調味料が不足しているとのこと。
⑤大室小室の村5軒を訪問し物資を配給。北上町で居酒屋を経営していたご婦人などと話す。お米、お酒などの物資を配給すると非常に喜んでもらえた。ライフラインは、水も電気もきていない。
⑥大室小室の避難所を訪問。20人が避難。物資を配給。
⑦個人宅本家の避難所に訪問。物資を配給。
17:30石巻教会に参拝。物資を配給し、教会長先生と奥様先生と懇談。
18:00少年少女会のベースキャンプを視察。
①約20名がおり、重機3台とトラック、キャンピングカーなどがあった。
②22日には、2名を残して一旦撤収し、次回は5月9日から作業を行うとのこと。
ホームレス支援機構のK氏より物資の提供を受ける。ワゴン車一杯分もらうことができた。(キヤンベルスープ4箱、クランチチョコ15箱、韓国海苔ラーメン6箱、カップヌードル4箱、テイムタム4箱など)
【4月22日】07:30部屋の掃除をすませ、帰阪の途につく。道中、気仙沼の教会長先生より、電池式のランタンが欲しいとの依頼の電話があり、東京で手配し、早急に送付済み(電池付1480円×10個)。
22:20大阪センター着・解散
【このたびの派遣を通して感じたこと】
第一次派遣隊の報告は受けていましたが、実際、現地を目にすると、状況はすさまじく、場所によっては壊滅状態という言葉が適している状況を目の当たりにしてとてもショックを受けました。そして、被災地が広範囲なため、復興が早い所と、ほとんど手付かずの所の格差が大きいことに驚きました。私たちは、幸い家は流されず、しかし家が流されなかったために避難所に入れず、物資も満足に届かない、いわゆる「孤立集落」をローラー作戦で探しだし、物資を届け、お話を聞かせてもらうという活動を主にさせていただきました。
このたびの派遣に当たり、大阪センター内で会議を進める段階では、正直、「孤立集落というのが、果たして見つけだせるのだろうか」と半信半疑なところがありましたが、いざ被災地に到着し、車を走らせていると、行く所行く所に、孤立した集落があり、そこに確かに人が生きているということを実感しました。
第一次的な支援(食料や生活に最低限必要な物品。ライフライン、生活インフラ)が届いていない所がまだまだたくさんあります。「ここ数日の問に、やっと自衛隊が来た」という地域が、石巻近辺、都市部から少し離れた場所にも多くあり、気仙沼以北、陸前高田や大船渡など岩手県内はもっと酷い状態であると推測できます。最も復旧が進んでいる石巻(石巻は異様な速さで復旧が進んでいます。ここだけは、第一派遣時とは全く違う風景でした)では、たくさんの有名人、芸能人が来て、炊き出しやイベントを行っていますが、少し都市部から離れた以北の集落では、「家が残ったから、避難所に食べ物をもらいに行けない」など、不平等な状態が横たわっています。実際、先述のように、石巻市内でキャラバンのハッチを開けると、どこから来たのか、近所の住民が群がってきて、「ガソリンをくれ」、「ビールはないのか」などと、私たちがどこの誰とも知らず、当たり前のように物資の提供を要求してきた所もありました。対照的に、手つかずの地域には、「もらいたくても遠慮してしまう」、そして、物資を渡したら、涙を流しながらお礼を言われるような状態でした。そんな報道にも取り上げられない方々がたくさんおられるのです。そして、非常に驚いたことは、今回お会いした方のほとんどは、津波の状況を淡々と語られます。それを見ると、怖かったとか、将来の不安とか、そうした感情がまだ追いついてきていないように見受けられました。これからライフラインが復旧し、それなりの生活が送れるようになった時、初めて強烈な不安感や焦燥感が出てくるのではないかと思うと、とても不安な気持ちになりました。
また、被災者の様子がおかしくなっていることも事実で、街中で大声を出したりしている人がいましたが、東北センターのN師によると、震災以降、街中に家をなくした被災者が増え、ホームレスをしている姿や、このように、叫んだりしている人が極端に増加しているとのことでした。事実、被災地で、壊れた家と家の間で洗車をしている光景は、普通に考えれば、奇妙な状態であったと思います。このような中、今後の活動として私たちにできることは、おせっかいでも、孤立した集落に残った数件の家(高齢者だけで暮らしている家もたくさんあります)に、少しでも物資を届け、話を聞かせてもらい、可能な限り、要望を聞かせてもらうことが、第一義であると思います。人も来ない、食べ物も無いとなると、後は死ぬのを待つようなものです。今回お会いした一人の方がおっしゃっていました。「被災者同士で話をするより、被災者でない第三者とお話した方が、みんな元気をもらえます。勇気をもらえます」と。今後も、このたびのような、小規模の団体だからこそできる草の根的な活動を続け、物心両面の援助ができていければ願っています。孤立している人たちを見つけ、少しでもお話を聞かせてもらい、安心してもらうこと、これが、私たち宗教者にとって、まず大切にさせていただきたい活動の第一歩ではないだろうかと思わせていただいております。

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