学院の沿革 |
学院の沿革-1
|
〒719-0111
岡
山県浅口市金光町大谷
1486番地
(TEL)
0865-42-3115
(FAX)
0865-42-3114
メー
ルを送る
|
|
|
|
トッ
プページ 学院の沿革 学院の沿革-1 前
のページに戻る
|
 |
神道金光教会学問所の開設
明治27年(1894)11月11日、かねてより教団としての人材育成のことに心を砕いていた佐藤範雄師は、近藤藤守師、二代白神新一郎師に学校建設の必
要を説き、その賛同を得ました。
そして、11月29日、神道金光教会学問所の看板を掲げ、山本豊、川合萬吉の両名を教員として、授業が開始されたのです。
明治28年(1895)には学問所規則を整備、更に、明治30年(1897)4月には神道金光教会中学部と改称し、教員も6名に増員しました。この年の春
には、教殿と校舎も竣工しました。
越えて、明治31年(1898)1月には金光中学開校式を挙行、10月24日には初めての卒業生を送りだしました。
講習科の設置
講習科は、明治34(1901)年9月、金光中学内に、満20歳以上の教師志願者に対する速成コースとして設置されました。
それは、金光教が神道本局から独立する際、内務省との交渉の中で、教団を維持していく上で十分な教師数を確保していく必要性を指摘されたことによるもので
した。
講習科の講習期間は6か月で、毎年2回開講され、明治38(1905)年2月までに前後7回開講され、合わせて、174名が修了しました。
教義講究所の設置
明治38(1905)年、金光中学校が中学校令による普通中等教育機関として文部省の認可を得たことに伴い、教師育成部門(旧本科及び講習科)を別立し
て、教義講究所が設置されることになりました。
更に、教師育成のためには、教理の講究と共に信念の修養が欠かせないということから、明治40(1907)年2月15日、規則を改正、講究所内に修徳殿を
設置することになりました。
当初は教殿を仮修徳殿としていましたが、教祖25年祭(明治40年)記念事業として修徳殿が建築されることとなり、明治44(1911)年、その落成を見
ました。
修徳殿師父
講究生の信念修養を指導するため、修徳殿師父が置かれることとなり、明治45(1912)年2月、佐藤範雄師、近藤藤守師、高橋富枝師がこれに委嘱されま
した。
更に、これに先立って、明治44(1911)年5月、佐藤一夫師が、次いで大正元(1912)年11月、高橋正雄師が監修に任命され、講究生の日常生活を
指導監督することとなりました。
また、この間、大正元年9月には、講究生の修業生活の心得や当番任務の内容等を定めた「殿紀」と監修の訓育要項を定めた「監修執務要領」が整えられており
ます。こうして、今日にいたる信行生活の礎が築かれました。
鍛冶屋谷への移転
大
正10(1921)年2月、大教会所造営成就の後、教団の一層の発展を期すため、教義講究所の拡張充実を望む声が高まりました。その機運の中、大正13
(1924)年3月、受講に専念せしめるため、従来の自炊を廃して賄いとし、科外講座として、布教経験者による起居を共にしての指導を採り入れるなどの改
革を行いました。
引き続き、科別、入学資格等についても変更を加えましたが、その動きの中で施設の不備・狭隘が問題とされ、大正14(1925)年2月、支部長会の協議を
経て、別派独立25年記念事業として、教義講究所の移転改築を行うこととなったのです。
しかし、大正14年4月14日、大教会所炎上という事態に遭遇し、この計画は一旦頓挫の止むなきに至りました。
昭和2(1927)年7月、大教会所復興造営部が設けられ、その年2月、復興造営の根本方針が発表されました。その中で、大教会所敷地拡張のため、教義講
究所及び金光中学を移転することとし、講究所の移転地は大谷東南の鍛冶屋谷とすることが定められました。
昭和9・10年事件
大正末年以来の講究所制度・施設の改革・拡充の動きの中、講究生数も急激に増加し、昭和元年以降7年まで、卒業者数は毎年200-250名に達しました。
施設の充実、入学者の増加とともに訓育上の配慮もまた次第に充実の度を加え、昭和8(1933)年の教祖五十年大祭には、全教と共に教運の隆盛を讃えるこ
とができたのでした。
と
ころが、翌昭和9(1934)年5月、所謂「国粋新報」事件が起こりました。教団を挙げての事態の緊迫の中、遂に昭和10(1935)年4月3日、教義講
究所は各科卒業式を繰り上げて挙行し、同日、管長宛てに上申書、教監宛てに進言書を提出し、全教の教会長に声明を発した後、4月5日付けをもって所長以下
講師全員が辞職願を提出することになりました。
こうして、教義講究所は閉鎖されたのでした。
弥広会館時代
昭和九・十年事件終息の後、所長以下職員が新たに任命され、教義講究所は昭和10(1935)年11月1日より再開されることになりました。
この時から昭和20年代半ばまで、教義講究所(後、金光教学院)は、鍛冶屋谷の施設を離れ、弥広会館を教場に、大阪教会、三条・四条両教会控所などを自修
寮として借り受けて教師育成の任に当ったのです。
この間、施設の面では不自由を忍びながらも、講究所の発展には見るべきものが多くあります。ひとつは、大正13(1924)年に設置が決定されていながら
も、これまで実動していなかった研究部が始動し、活発な研究・討議を進めて成果を上げたことです。
更に、「御広前金光様のお膝元に於て、大教会所の書生として修業」するという根本精神が確立され、「祈願」「誓約」が定められました。
具体的な修業の中味も次第に整えられ、昭和14(1939)年頃には、「講究生修業心得」がまとめられるに至ったのです。
さらに続きを読む
|
|