道路を掃きながら思う
私が奉仕している教会前の道路は幹線道路で、交通量がとても多い。そのためか毎朝沢山のゴミを目にします。夏に多いビールの空き缶や、弁当箱、煙草の吸い殻、灰皿をそのままひっくり返したのではないかと思う時もあります。道路はゴミ箱ではないのだけどな、なぜここに捨てるのだろう、と悲しい思いになりながら道路を掃いています。
ある時先輩から「あなたはどういう思いで掃除をしているのですか?」と問われました。その時は「道路が汚いからきれいにしています」としか答えられませんでした。先輩は漠然と掃除をするのと、祈りや願いをもって掃除をするのとでは、大きな開きがあることを教えて下さいました。それから、「朝出勤する方が気持ちよく通行できるように」と思えるようになり、だんだんと、教会の前を通る人達の今日一日の安全を祈ることができるようになってきたのです。道路を掃いていると「寒いのにご苦労さん」と言って下さる方、「おはようございます」と挨拶して下さるサラリーマン、「こんにちは」と元気な小学生、バイバイと手を振ってくれる保育園の子供達など、沢山おられます。一日に何百人、何千人と教会前を通る方々一人ひとりのことを真剣に祈っているのかと問われれば、確かに心許ないです。しかし、交通安全のために、また、通行人に不快な気持ちをもってもらいたくない、と思っています。
金光教祖は「天は父なり 地は母なり」と天地はご神体と教えています。神様のご神体をきれいにする思いで、祈りながら、時々不満を言いながらも、天地をきれいにしたいと思います。些細なことですが、沢山の方の一日を不快感なくスタートさせるお手伝いができるなら、ありがたいことだなと思いながら、今日も道路を掃いています。
コメント記入
次のフォームにコメントを記入してください。