日常生活の中での信心の稽古
境内の木にヒヨドリが巣を作りました。背伸びをすれば手が届くくらいで、丸見えというか「なぜここに?」というような位置でした。いつしか雛が生まれ、親鳥がせっせと餌を持ってくる様子は微笑ましいものでした。
ある日の朝、けたたましい声で鳴く鳥の声が聞こえました。見に行くと道の真ん中辺りで、羽をばたつかせている雛が。車は雛を避けて徐行しての通行で、雛は羽をばたつかせて行ったり来たりしていました。私はこれは大変だと思い、雛を優しくつかみ、境内の方へ移動させました。親鳥は雛を捕られまいと必死に鳴き叫びながら近づいてきました。私は恐怖を感じ、生け垣に雛を放すのが精一杯でした。自分として「やれることはやった」「助けることができた」とその時は思って出勤しました。
翌朝、再び親鳥が鳴き続けていました。見に行くと境内の池で雛が仰向けになって浮かんでいたのです。私が雛を放した生け垣から池までは5メートルほどでしょうか。助けたつもりでいた私にはショックでした。雛の亡骸を見つめ、鳴き続ける親鳥。雛に近づこうとせず、木の上から鳴くだけでした。私が雛をすくい境内に埋めるのを見届けると、安心したかのように親鳥は飛び立っていきました。
金光教の教えの中に「かわいい(ふびんでならぬ)と思う心が、神心である」とあります。この心は思うだけでなく、そこから助けよう、役に立とうとする動きへと駆り立てます。最終的に雛を救うことはできませんでしたが、巣から落ちた雛や親鳥の様子を見て、私を突き動かしたものがありました。巣が作られ、成長を見守り、巣立ちの失敗。一度は助けることができたようで、最終的には見送りを手伝うことに。今回の一連の出来事で、神心を育む稽古を受けさせていただいたように思います。日常生活の中での些細な出来事を通して、いつも神心が発揮されていくよう、そして神心が育み磨かれていくように、信心の稽古を続けさせていただきたいと思います。
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