争わない勇気
ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が開始されて3カ月以上が経ちました。それ以来、テレビやネットからは毎日のように悲惨な映像が目に飛び込んできます。町並みは破壊され、人々は故郷を追われ、財産を失い、心に深い傷を負う人も後を絶ちません。ウクライナ・ロシア両国ともに数多くの尊い命が失われており、世界中の人々が一日も早い戦争の終結を願っていますが、事態は一向に解決しそうにありません。
そもそも、人は何故戦争をするのでしょうか。もちろん国を治める指導者には、場合によって国を守るために引くことのできない事情が存在することは理解できます。でも、過去に世界で起きたいろいろな戦争を見ても、戦争によって双方の満足する結果が得られたことはほとんどありません。必ずといっていいほど、どちらかが不幸な結果を受け入れざるを得ないことになっています。
戦争のない世界真の平和を願う
新型コロナウィルス感染症や気候変動による環境対策が待ったなしの状況下、地球規模での普遍的連帯が必要なときに、全くそれに逆行し、ロシアがウクライナへ侵攻した。冷戦が終焉したとき、国家間の直接的な戦争は起こらないと誰もが信じたが、無残にも裏切られた。それも小国やグループの独裁者ではなく、国際的な政治秩序である国連の安全保障理事国のロシアが公然とその国際ルールを破ったのである。これは到底許される行為ではない。
ただ、この問題の難しいところは、戦争は何も悪意を持って人を殺したいからするのではなく、自らの国や民族、集団の正当性を主張し、自分たちを守り、間違っている現状を正そうとして戦争を始めるからである。そこには正義感、同胞愛、理想といった善意に支えられ、自らの正義を持ち出し、その心の底に「間違っているあなたのためを思って正してあげる」という善意の使命感があるから始末が悪い。しかし、自ら正しいと信じていることが相手を責め傷つけてしまうあり方、個々のところで正しくても全体としては悪になったり、善意が悪となってしまう根本的な矛盾を抱える人間の難儀性があることも自覚する必要がある。
道路を掃きながら思う
私が奉仕している教会前の道路は幹線道路で、交通量がとても多い。そのためか毎朝沢山のゴミを目にします。夏に多いビールの空き缶や、弁当箱、煙草の吸い殻、灰皿をそのままひっくり返したのではないかと思う時もあります。道路はゴミ箱ではないのだけどな、なぜここに捨てるのだろう、と悲しい思いになりながら道路を掃いています。