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人間魚雷「回天」が問いかけるもの

 金光教東京センター2003年12月20日、金光教センタービル(東京都文京区)こんこう平和セミナーを開催し、30人が集まった。
 今回は、塚本悠策氏(東京都芝教会)が「人間魚雷「回天」が問いかけるもの」と題し、講演した。


 塚本氏の実兄の塚本太郎氏は、大正12年に10月4日に生まれ、慶応大学水泳部の水球部に所属し、アジア大会にも出場したほどの腕の持ち主であったが、昭和18年大学在学中に「若いものが出て行かなければ、内地にいる人はみんな不幸になる」と海軍に入隊。自ら志願して回天特別攻撃隊金剛隊に配属となり、昭和20年1月、21歳の若きいのちを捧げた。
 当時「マル六」と呼ばれた回天は、前頭部に爆薬を装備し、人間魚雷とも呼ばれ、その名の通り魚雷そのものを人間が操縦して敵艦に体当たりするというもので、潜水艦につながれた回天は一旦発進すると一切生還の方策がなく、暗い船内で角度を調べる傾斜計と進んだ距離を時間で計る砂時計だけが頼りだった。
 太郎氏は、昭和18年大学3年生の時、学徒動員で海軍に入った。「雨が降りしきる中、東京神宮外苑の学徒出陣壮行会が挙行され、分列行進が行われた。その日帰ってきた兄が、玄関でびしょ濡れになった靴をぬいでいる姿が今でも目に焼き付いている。特攻隊員には、長男は除外されていたが、血書嘆願書を書いてまで自ら特攻隊員に志願した。昭和19年11月に特攻隊が決まり、休暇が与えられて最後のお別れに帰ってきた。母に着ている着物で座布団を作って欲しいと言って作ってもらったが、その時の私にはなぜかわからなかった。当時、呉工場の女子学生たちが、回天で出撃する人たちに回天の搭乗席に敷く座布団とマスコット人形を手渡していた。兄はもらった座布団は遺品として残し、母の作ってくれたその座布団を手に乗り込んでいった」と当時の様子を語り、「多くの若者たちがどのような思いや覚悟を持って死へと向かざるを得なかったのか、戦争の不条理と平和の大切さを、残された私たちが孫や子ども達に語り継がなくてはならない」と語った。
を整備し、多くの戦友を見送った方や大空襲の後の真っ暗な空から黒い雨が降ってくる中、走って家に帰ったという方、防空壕が攻撃されたが、防空壕に逃げ切れなかったために助かった方など、参加者の体験談も出された。